旅の音が聴こえる。

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溝口肇

チェリスト

 東京、神楽坂にある溝口肇さんの事務所に到着し、そのドアを開けて中に入ったとき、そこで待っていたのは、マメ。溝口さんの愛猫だ。室内飼いされる猫の多くは臆病で人見知りだと言われるが、中には好奇心旺盛で人懐っこい猫もいる。マメはまさに後者の猫(オシキャットという珍しい猫だという)。
「うちの猫は、宅配便のお兄さん、お姉さんに大人気なんですよ」と溝口さん。「宅配が来ると、玄関でドアが開くのを待ち構えていますから。もちろん、中身を出した後の段ボール箱に、すぐ入ります」
 というわけで、迎えてくれたマメの案内に従い、玄関から廊下を抜け、奥のリビングルームへと向かった。
 廊下の壁には、写真集にもなっている溝口さん撮影の写真が何点か飾られていた。青山の路地裏にかつて、「ヘイデン・ブックス」というブックカフェがあり(素敵な店だった)、数年前そこで溝口さんの写真展が開催された。廊下の壁に飾られた写真のいくつかは、そのときに展示されていたもので、懐かしさを感じながらじっくり見ていった。モノクロの、ポーランドの空港の写真は、溝口さんがオーケストラ・レコーディングで訪れたときのものだったか。そして、ニューカラーを思わせるポラロイド写真のシリーズは、溝口さんがアメリカをオン・ザ・ロード(自分で車を運転)しながら旅をしたときのものだ。溝口さんが撮った写真からは、不思議なのだが、音楽が聞こえてくるような、そんな感じがする。
 溝口さんが作った「世界の車窓から」は、旅の名曲として名高いが、溝口さんが奏でる音楽からは、いつも旅の香りがする。
 自由に旅に行けない今、たとえば溝口さんの2019年のアルバム『WORDLESS』を聴くと、ヨーロッパのどこかの街へ、あるいは、南米の見知らぬ場所へ、旅しているような気持ちになれる。そのアルバムのジャケットは、大地に横たわるように置かれたチェロの写真だが、それも溝口さんが撮った一枚だ。その写真はまるで、チェロが空を飛び、旅をして、人のいない大地に降り立ったかのように見える。WORDLESS——言葉は要らない、その「音」だけで何処かへ旅をさせてくれる、それが溝口さんのチェロだ。

ライカ、ポラロイド、ヴィム・ヴェンダース。

「ライカとポラロイドの両方をバッグに入れて、あるときには古い8ミリフィルムを回しながら、旅をしていた頃もありました。僕は機械が好きです。写真は撮ることも、見ることも楽しいですが、もともと古いカメラの造形が好きなのだと思います。昔のライカは見て美しいし、手に持ったときの感触も好きです。
 年代の経ったもの、古いものを好きになる傾向が自分にはあると思います。それから、デザイン重視というか、デザインが好きかどうかというのが、実は一番重要かもしれません。自宅のリビングルームで使っているオーディオは、20世紀のミッドセンチュリーのものが中心ですが、最終的にはデザインが気に入って選びました。アンプはマッキントッシュのC33とMC240、レコードプレイヤーはトーレンスのTD124、スピーカーは3種類使っていますがメインはJBLのバロン。機械好きなので、カメラもオーディオも車も、きちんと中身を吟味して考えますけれど、でも最後に決めるポイントはデザインだと思いますね。デザインが気に入らなければ使わなくなってしまうので」

「廊下に飾ったポラロイド写真のシリーズは、アメリカを車で旅したときに撮ったものです。モーテル、田舎の一本道、信号機、古い自動販売機……。映画監督ヴィム・ヴェンダースの、『WRITTEN IN THE WEST』という写真集があるのですが、あの感じがたまらなく好きです。
 僕はヨーロッパのイメージで見られることが多いのですが、アメリカの乾いた荒野の風景とか、映画『パリ、テキサス』、『バグダッド・カフェ』で切り取られている景色が大好きだし、熱帯のハワイも大好きです。
 でも、やはり、仕事でもプライベートでも、よく行ったのはヨーロッパで、何度も訪れているのはフランスとイタリア。チェコ、ポーランド、イギリス、イスラエルといった国は、レコーディングやライブで行ったのですが、どれも記憶に濃く残っています。ポーランド、ワルシャワのオーケストラの音は素晴らしいです」

ヴェネツィア、波、マーラーのアダージョ。

「イタリアは、仕事、プライベート合わせて10数回は旅していますが、特にヴェネツィアが大好きで、5回訪れています。もともと水辺が好きなのですが、ヴェネツィアは水の都だから相性が良いのだと思います。
 ヴェネツィアは小さな島々の集まりで、ほとんどの島で車やオートバイが一切走れません。島の中で人々は歩いて、別の島に移動するときには水上タクシーか水上バスを使います。島内に車が走っていないから、とても静かで、時間がゆっくり流れているような感覚があり、心身が落ち着きます。
 仕事で旅をするときには、事前の準備、コーディネイションがすべてというくらい大事ですが、逆にプライベートの旅では、予定は決めません。朝起きて、さぁ今日は何をしようか、と考えるのが楽しいのです。
 朝コーヒーを飲みながら、じゃあ今日はヴェネツィアン・グラスで有名なムラーノ島へ行ってみようか、という感じでスタートして、そこへ行く水上バスの番号を調べて、乗ってみる。ムラーノ島へ向かって、ヴェネツィア湾を滑るように進む水上バスは、片道45分ほどですが、びっくりするくらい心地良い船旅でした。船尾の方の席で、スクリューが作る波をただぼーっと見ていたのは、良い記憶です。白く伸びる波を見ながら、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『ベニスに死す』で遣われていたマーラーのアダージョが、静かに頭の中に流れていました」

ポーランド、ピアノ、チェロ。

「このピアノは、20世紀、第2次世界大戦の前の年にドイツで作られ、ポーランドに送られたものです。こんな感じで……(ピアノを弾く溝口さん。少しくぐもったような、独特の音色。廃校にあった古いピアノを思わせる、郷愁感あふれる音)、……少し古い感じの音がしますよね。ほんとうは、もうちょっときらびやかに鳴ってほしい気もしますけれど、この音も悪くない。いつかこの音をきちっと録音したいと思っています。
 この古いピアノも、日本に運ばれるときにしっかりオーバーホールされ、ぴかぴかになって届きました。もっと弾きこむと、フェルトが固くなって、本来の音が出始めます。
 もともとこのピアノは別の部屋に置いてあったのですが(そこがピアノ用の部屋だった)、そちらに猫のトイレを置いて『マメ部屋』にしなければいけなくなり、今はここにピアノがあります」

「作曲はピアノですることが多いですね。自分のチェロの楽曲も、これまでほとんどピアノで作ってきました。
 生まれてから最初に学んだ楽器がピアノでした。3歳の頃、テレビでカラヤンを熱心に観ていたらしくて、それを目撃した母親は『この子は特別だ!』と思ったようです。僕はそのことをまったく覚えていませんが(笑)。とにかく、3歳でピアノを始めました。上達が速く、『神童』と呼ばれたこともありましたが、10歳くらいのときに急にピアノの『練習』が嫌いになり、そこからピアノへの熱意が急激に萎んでしまいました。ただ、母親は僕をプロの音楽家にさせようと思っていたんですね。それで、他のオーケストラ楽器はどうだろうということで、ある日、母に連れられて、近所にあるヴァイオリン教室に行きました。それが11歳のとき。ヴァイオリンの先生に、『プロのヴァイオリニストになるには3歳くらいから始めないとダメだ』と言われましたが、『チェロなら今からでも遅くない』ということで、チェロを習うことになったというわけです。当時、世界的チェリストのパブロ・カザルスが、ニューヨークの国連で『鳥の歌』を演奏するという出来事があったのですが、それをたまたまテレビで僕は観ていました。それも、チェロへの興味が大きくなったきっかけだったと思います」

ディープパープル、ジョン・コルトレーン、ビル・エヴァンス。

「時々インタビューで、『溝口さんの音楽のルーツは何ですか?』というような質問を受けるのですが、特にこれというルーツが僕にはありません。中学生の頃はバンドでロックを演っていました。ディープパープルなど演奏していました。ロックは『大切な趣味』という感じでした。
 チェロを弾いて、クラシック音楽をきちんと学んでいましたし、やがて東京藝術大学をめざすようになるわけですが、そんな僕にとって、クラシック音楽は『勉強』。一方、ロック音楽は『遊び』。共通するのはどちらも真剣に向き合っていたことです。ロックは『とても大切な遊び』でした。FMラジオで音楽番組のエアチェックをして、リー・リトナーをじっくり聴いていた頃もありました。
 青春時代にそうやって聴いていた音楽は、すべて自分の血肉になっていると思います。たぶんそれらが自分の音楽的ルーツになるのだと思います。10代の頃に聴いていたロックやポップス全般は、後に作曲、編曲、演奏する『プロの音楽家としての自分』の原点であるようにも思いますね」

「リビングルームで聴く音楽は、仕事から完全に離れた状態で、レコードでゆっくり聴きます。リラックスするために、部屋の中を自分の好きな音楽で満たすというような感じです。それから僕は、作曲や編曲といった音楽の仕事以外に、自分の会社の事務仕事もやっているので、たとえば嫌いな経費の計算なんかをしているときに、サラ・ヴォーンをレコードでかけたりしますね。事務作業は面倒だしイライラするものですから、そのネガティブな気持ちをどこかで埋め合わせしないといけませんから(笑)。
 僕にとって『音楽を聴く』というのは、ほんとうに特別な時間なのです。ふだんからずっと作曲、編曲をしていて、どっぷり音楽に埋もれているわけですから。それ以外の時間でわざわざ音楽を聴くとなれば、そのときにはもう、『自分が逆立ちしても叶わないというような音が聴きたい!』ということになります。自分にもできそうだなんて思えると、途端に頭を使い始めてしまい、プロの音楽家としての自我が出てしまうので、そうならない音楽を聴く。
 自分が『この人、すごい』と思う音楽家というのは、基本的にはもう亡くなってしまった音楽家たちです。僕がまだ生まれていない時代の、あるいは幼い頃の、そしてもう今はいない人たち。ジョン・コルトレーン、ビル・エヴァンス……、そのような音楽をレコードで聞くことが一番多いと思います」

夜のとばり、石畳、神楽坂。

 撮影が終わると、溝口肇さんは、「よかったら、少しだけ神楽坂を歩いてみませんか」と言って、外へと出た。
「じゃあまず、もっとも神楽坂らしいところから……」
 溝口さんは以前、長く恵比寿に住み、西麻布にオフィスとスタジオを構えていた。
「こっち(神楽坂)に来たばかりの頃は、何もわからなかったですよ」と溝口さん。「知ると、面白い街だなと思います。こういった車の通れない小径とか、石畳の路地が、実に良いんですよね」
 時間はちょうど夕暮れと夜のあいだ、いわゆるトワイライト・タイム。空にはわずかに残照があり、その群青色の空の下で、通りの灯りがつき始めた時間だ。石畳に街灯が反射し、なるほど雰囲気がある。脇道に入ると、さらに道は狭くなるが、そんな路地の奥に(一見さんには暖簾をくぐることを躊躇させる)立派な料亭があり、その向かい側に小さなガレット屋がある。とても不思議なミクスチャーだが、これは神楽坂の魅力のひとつだ。
「まだ夜が早いですし、今はコロナの影響で人出がいつもとまったく違います」と溝口さんは言った。
 いつもの、本来の神楽坂を想像する。こんな小径を、芸者さんが座敷に向かって歩いていたり、通りへ出たところに黒塗りの車がずらりと並ぶのだろう。
 江戸の風景を今に伝える一方で、近くに「アンスティチュ・フランセ東京(かつての東京日仏学院)」などがあるためフランス人も多く、「小さなパリ」とも称される神楽坂。かつて花街として栄えた時代の面影を残しつつ、小さなビストロやレストラン、カフェ、ギャラリー、和菓子屋など、狭いエリアにいろいろと並ぶ様子は、小さな京都のようでもある。昼間は猫が瓦屋根で日向ぼっこしているが、夜になると別の顔を見せる。
「西麻布にスタジオを構えていた頃は、ずっと中に籠もりきりでしたが、こっち(神楽坂)に来てから、街を歩くのも楽しいと思うようになりましたね。一日中ずっと作曲や編曲をしているので、夜になってからちょっと出て、馴染みのバーに行ったり」
 きっとそんな風に溝口さんは、ヨーロッパでもアメリカでも、旅先の街で、ふとひとりでバーに入っていったのだろう。ヴェネツィア、パリ、ワルシャワ、ニューヨークといった街で。
 チェロと一緒に旅をしていた溝口さんの姿を想像する。壁に飾られていた写真を撮っていた溝口さんだ。青春時代に聴いていた音楽が血肉となっているように、かつての旅が、生まれてくる音楽の中でよみがえることもあるに違いない。そう、だから溝口肇さんの音楽からは、いつも旅が聴こえてくるのだ。

Cast profile

溝口肇(みぞぐち・はじめ)
チェリスト、作曲家、プロデューサー。
3歳でピアノを、11歳でチェロを始める。東京藝術大学音楽学部器楽科チェロ専攻卒業。学生時代から八神純子、上田知華とカリョウビンなどのサポートメンバーを務め、卒業後スタジオミュージシャンとして様々なレコーディングに携わる。1986年『ハーフインチデザート』でCBS SONYよりソロデビュー。以来、クラシック、ポップス、ロック、ジャズなど幅広いジャンルで演奏・作曲活動を展開。テレビ番組「世界の車窓から」テーマソングはあまりにも有名。GRACE MUSIC LABELを主宰し、CD制作、ハイレゾ音楽制作もおこなっている。また、GRACE MUSIC STOREから作品購入も可能。
2月、ニューアルバム『hopeness』を、e-onkyoなどで配信販売開始予定。
https://mizoguchi.mystrikingly.com

Staff credit

Creative Direction by チダコウイチ
Photography by 岩根愛
Interview & Text by 今井栄一

「良い音楽と良い本は、
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ブックディレクター

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