体に浸透する森の湧水のようなサウンド体験

The Sound of Nature

諏訪綾子

アーティスト

間伐材の枝葉を束ねた「タリスマン」への願い

「ここにいると、どこを歩いていてもこっちやあっちから、チョロチョロとかザーッとか、デフォルトのように水の音が聞こえてくるんです。反響する地形のせいか、春の朝などは特に鳥たちが気持ちよさそうに鳴き声をこだまさせてくれますし、夜になると霊的な甲高い鳴き声が聞こえてきて、地元の人に聞いたら“鵺(ぬえ)”という想像上の妖怪だっていう話もあって(笑)。いずれにしても夜は視界が遮られて真っ暗になるから、音が聞こえてくる方角やそこから自分までの距離も、立体的な気配となってダイレクトに浮かび上がる。『動物たちのテリトリーにちょっとお邪魔させていただいている』という感覚になります」

 そう語り始めたアーティストの諏訪綾子さんを訪ねたのは、清流で名高い山梨県道志村の森。彼女はここに2019年の夏、新たな拠点を手に入れた。それまで長く拠点にしていた東京・恵比寿のアトリエの建物が取り壊されることになり、いったんは都内で物件を探したもののピンとくるものに出合えず、あるとき「都会に固執せずともいいんじゃないか」と思い至ったという。道志村は、森での新生活の力仕事を一手に引き受ける諏訪さんのパートナーが、学生時代からこの村に慣れ親したしんでいた縁もあり、試しにネットで探したところ運良く今の物件が目に留まり、翌日には見学に来て購入を即決した。

「元々は私も自然児。石川県の羽咋(はくい)市という能登半島の田舎で育って、両親とも公務員で鍵っ子だったので、学校から戻ると近くの海でよく一人遊びをしていました。砂浜にはグロテスクで独特の匂いのする死骸にも似た何かが打ち上がっていたりしていて、あじわってみたいと思うんだけど怖いじゃないですか。それで友達を誘って、お皿に飾り付けて毒味してもらおうとしたり。そういう得体の知れないものを食べるスリルや葛藤も含めたお遊びを、この森にアトリエを持つことで久しぶりに思い出しました。東京を離れてみようと舵を切ってみたのも、薄れてしまった自分の中の動物的な直感や野性のようなものを取り戻したかったんだと思います」

 かくして諏訪さんが生み出す作品も、幼い頃のお遊びを「food creation」という屋号そのままに進化させ、いわゆるグルメとは異なる「あじわうことの可能性というのは、もっと広げることができるのではないか」という揺るぎない問いかけに立脚している。2008年、金沢21世紀美術館で開催された初個展の際に発表して以来、海外からも何度となく招致されるなど、彼女の代名詞となった「ゲリラレストラン」は、 “後をひく悔しさとさらに怒りさえもこみ上げるテイスト”や“恥ずかしさと喜びがゆっくりと快感に変わるテイスト”といった「感覚であじわう感情のテイスト」をフルコースで提供するパフォーマンスで知られる。他方ではアートプロジェクトもブランディングと捉える数多の企業から求められ、都度、実験的なダイニングエクスペリエンスやフードインスタレーションを精力的に発表。その創作活動は常に自然の一部としての人間の五感を呼び覚ますことをテーマとしてきた。

 そして2020年1月、満を持して銀座の資生堂ギャラリーで開催された個展「記憶の珍味 諏訪綾子展 Taste of Reminiscence Delicacies from Nature」では、ガラスドームの中にある諏訪さんならではの複雑怪奇な匂いから各々の記憶に通じる一つを選び、鑑賞者はヘッドフォンをして、真っ暗闇の空間へ。そこから音声に導かれた先に光る、選んだ匂いに基づいた記憶の珍味を実際に口にできるという作品に挑んだ。諏訪さん曰く「死ぬ前にあじわいたい究極の食として、『記憶=わたし自身』をあじわうという体験」は、盛況のうちに終わるはずだったが、3月の会期終了を待たず、新型コロナウイルスの災禍による緊急事態宣言で中断に。その後、8月には再開されることになったものの、暗闇の密室で、ものを食べるというフィジカルな体験をそのまま再現するのは難しい。そこでリスタートとなった個展の新たなメタファーに諏訪さんが選んだのが、外出自粛期間中に森の生活の中から偶然生まれた「タリスマン」(魔除け・お守り)だった。

「森にアトリエを持ったとはいえ、もっと頻繁に東京との間を行き来するイメージでいたんですが、昨年の緊急事態宣言をきっかけに、すっかりここが生活のベースになりました。スケジュールもいったん白紙になって、毎朝起きたら子どもの頃のように『何をして遊ぼうかな?』と思える先が見えない自由が、むしろすごくうれしかった。ある意味で思い通りにはならない自然に振り回される自由が新鮮で、毎日散策していました。森の中では、間伐された木の幹の部分は建材や薪に使われる一方で、あまりに多いと産業廃棄物として処理されることもあるという枝葉は地面に落ちたままで、都会からやってきた私の目にはとても美しく映りました。そこで拾ってきてはせっせと束ねて東京でステイホーム中の友達たちに郵送で贈ったら、思いがけず喜んでもらえて。私たちが森に入ると感じる“良い気”は、植物に含まれているフィトンチッドという化学成分の香りでもあって、これは木樹が外から刺激を受けたときに身を守る殺菌成分のある揮発性物質でもあるんです。人間にとっても免疫機能を高め、殺菌効果があることも証明されていて、ちょうど消毒用のアルコールやマスクが手に入らない時期だったので、タリスマンを部屋に置いてもらえたら、ある意味、魔除けになるんじゃないかと思いました。友人たちからはお返しにお菓子やワインなどの森にはないものが届き、それを村の方からいただく野菜や鹿肉などのお返しにと、都市と自然の循環がうまれて、新しい気づきにも繋がりました。

 こうしてふたたび挑んだ資生堂ギャラリーでは巨大なタリスマンを森から運んで天井に設置。枝葉にはアトリエでの生活の中で収集した様々な葉や土を蒸留して抽出した野性の匂いを含ませることで、自然の力で浄化された空間体験をつくりあげた。なお、訪れた森のアトリエで最初に客人を出迎えるのも、まるで動物に人間との境界をそっと知らせるかのように外壁に掲げられた、このタリスマンに他ならない。

森のアトリエで先が見えない自由をあじわい尽くす

 訪ねた日の午後も、諏訪さんは森へ散策に出かけた。歩き始めると嬉々として、急斜面もものともせず、冬の太陽ならではの澄んだ光とも戯れながら、ズンズン進んでいく。沢の音は徐々に鮮明に、水源地の原生林と植林された杉や檜などを愛でながら、湧き水を見つければ持参したコップで口に含み、清流を渡ればそこにテントサウナを張って川に身を浸したいと語り、美しい朽葉が落ちていれば宝物を見つけた子どものような笑みを浮かべる。さらに獣道を見つければクンクンと匂いを嗅ぎ、興味を惹かれる葉や木肌は躊躇なく口にし、低木にひっかかった枝があれば「木の気分になると、つい取ってあげたくなる」という理由で、いつの間にか手にしていた用心棒さながらの別の枝で、ツンツン突いてみたりもする。

 一帯は、代々この広大な森を受け継いできた山主さんが、無双の虫好きである養老孟司さんとともに保全に取り組む「養老の森」としても知られ、間伐、散策路の整備、動植物の調査などの森づくり活動が行われているという。
 なかでも諏訪さんのお決まりのコースは長短あり、ときに3時間近く歩くことも珍しくない。この日は歩くこと1時間余り、周囲の山を見渡す小高い丘にたどり着くと相当な樹齢を重ねた大きな木の下に立ち、おもむろに持参したヘッドフォンを耳に当てた。弦楽器由来のフレイムにあしらわれたメイプル素材が、周囲の木々とも調和する。

「究極的に感覚を研ぎ澄ませたいときは、無音がいいと思っています。そういう意味で、実際に音楽がかかっていても、何かに集中していると聞こえていないこともある。資生堂ギャラリーで暗闇の鑑賞者にあえてヘッドフォンをしてもらったのはノイズをキャンセルして欲しい意図もあって、あじわうという行為に集中してもらいたかったからなんです。森の中でも、自然からのインスピレーションは受けつつも、自分と深く向き合うときは、音のない時間が必要です」

すなわち、ヘッドフォンによって水や風や鳥の音をあえて遮断された森は、諏訪さんにどんな声をもって、何を語りかけたのだろう。

 そうして陽が傾き始めた頃、アトリエに戻った諏訪さんはスマホにヘッドフォンを繋ぎ、今度はある音源を主体的に聴き始めた。聞けば、2019年に東京・南青山の「INTERSECT BY LEXUS - TOKYO」で発表された体験型インスタレーション〈Journey on the Tongue〉で、音の空間体験を拡張するサウンドアーティストevalaさんとコラボレーションの上で制作したものだという。“舌の上での旅”というタイトルがそのままに、全体の設計に新たな触感体験を探求するメディアアーティストの筧康明さんも迎え、音を筆頭に、振動・匂い・質感・温度などを口内で共感覚させることで、時間経過や空間移動の新しい体感を提供した初めてデジタルの領域と握り合った作品は、オーストラリアのリンツで毎年開催される世界最大のメディアアートの祭典「アルス・エレクトロニカ」のアワードでWinnerにもノミネート。世界からも評価を得たその音源を反芻しながら、諏訪さんはふと「なんだか森の湧き水みたい」という言葉を口にした。

「このヘッドフォンで聴くとどんな音も違和感がなくて、まるでここの水のように、体にすっと浸透するような感覚があります」

 やがてヘッドフォンを外し庭に出た諏訪さんは、森の生活では料理をするにも全てのエネルギー源だという間伐材を利用した薪を焼べ、日課になった焚き火を囲み始めた。かたわらの地面に無造作に置かれ朽ちて役目を終えたタリスマンを見つけると、思い立ったように焚き火の中に勢いよく放り込む。乾燥した枝葉はパチパチパチと、意外なほど輪郭のある強い音を奏でた。

「いい音でしょう?」

 そう茶目っ気たっぷりに問いかけた表情には、海辺で見つけた自然界のギフトを愉しげにお裾分けしていた少女の頃を彷彿とさせると同時に、すべてが予測不能の森に学ぶかのように、大きな時代の転換期においてもじたばたせず変化すらあじわい尽くそうという持ち前の本能が覗く。

 いま、誰もが主題として見つめ直し始めた人間と自然との関係性。その先にある物質的な豊かさを超える新しい世界の可能性を、諏訪さんは今日も森のアトリエから自分に、私たちに、問い続けている。

Cast profile

諏訪綾子(Suwa Ayako)
アーティスト。石川県生まれ。
金沢美術工芸大学卒業後、2006年よりfood creationの活動を開始、主宰を務める。欲望、好奇心、進化をテーマにした食に関する作品をパフォーミングアート、インスタレーション、ダイニングエクスペリエンスなどの手法で数多く発表。本能的な無意識の感覚に訴えることのできる表現の媒体として「食」を扱い、感情、記憶などの内在する感覚を「あじわい」で伝えることで、体験者に新たな問いや発見をもたらす作品が特徴。美食でもグルメでも栄養源でもエネルギー源でもない、新たな食の可能性を追求している。2008年、金沢21世紀美術館で初の個展「食欲のデザイン展 感覚であじわう感情のテイスト」を開催。現在までに東京・金沢・福岡・シンガポール・パリ・香港・台北・ベルリン・バルセロナなど国内外で「ゲリラレストラン」、ダイニング エクスペリエンス「Journey on the table」を開催。2014-15年、金沢21世紀美術館 開館10周年記念展覧会「好奇心のあじわい 好奇心のミュージアム」を、東京大学総合研究博物館とともに開催。2020年、SHISEIDO GALLLERYで「記憶の珍味 諏訪綾子展 Taste of Reminiscence Delicacies from Nature」を開催。2019年には「Journey on the Tongue」がEUとアルスエレクトロニカによるアワード「STARTS Prize」のWinnersに選定された。

Staff credit

Direction by 猪俣由貴
Photography by 中野道
Composition& Text by 岡田有加

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