「音楽と料理は一緒。喜びを共有できるから大好き」と語る平野レミさん。料理愛好家として活躍する彼女が、トレードマークのエプロンとメガネを外し、今年12月、35年ぶりにシャンソン歌手としてステージに立つ。
バイオリンが趣味だったフランス系アメリカ人の祖父、シャンソンの道へ導いてくれた父、音楽好きだった最愛の夫、ミュージシャンとして活躍する息子、そしてギターに夢中な孫……。レミさんの人生を彩ってきた、音楽と家族の物語。
レコードから流れるシャンソンのメロディに夢中に
レミさんの音楽的ルーツについて教えてください。
うちは子供の頃から父(詩人でフランス文学者の平野威馬雄氏)の友達がたくさん遊びにくる家だったんです。フランス人やアメリカ人のお客さんが持ってきたレコードをプレイヤーにかけたり、針を取り替えたりするのが私の役目でした。
その頃に聴いたシャンソンのメロディラインがとにかく綺麗でね。フランス語はわからなかったけれど、レコードから聴こえる通りにマネして歌うのが楽しかったんです。
目の前にお客さんがいるイメージをしながらひとりで床の間で歌ったり、庭にあった東屋で大きな声で歌ったりしていました。
すると父が「レミ、ちょっとこっちへ来い」と、お客さんの前で歌わせようとするの。「うちの娘、うまいんですよ」なんて言ってね。人前でアカペラで歌うのはムードが出ないから嫌だったけど、母まで「いいじゃないの! 歌いなさいよ」なんて囃し立てていました。
歌に夢中になる私の姿を見て、父が本格的に歌を習わせてくれたんです。

当時レッスンに通っていたのは、日本で初めて『カルメン』を演じたオペラ歌手の佐藤美子さんだったとか?
そう、「カルメンお美(よし)」なんて呼ばれていて有名だったの。私は千葉県の松戸に住んでいたから、神奈川県の鶴見にある先生のお宅まで東京をまたいで週2回通っていました。発声練習なんかが終わると、かわいいシャンソンの曲をたくさん歌わせてもらいました。
ただ、初めてレッスンに行った日に「プロになる気持ちを持っては絶対ダメです。お金はとても穢らわしいものだから」と言われてしまって。先生はしっかり月謝を取っていましたけどね(笑)。
その後、先生のピアノ演奏だけでは物足りなくなって、バンドをバックに歌ってみたくなったんです。銀座にある日航ホテルのミュージックサロンに直接電話をかけて、オーディションを受けたら合格。
初めてプロとしてバンドの伴奏で歌ったときは、本当に気持ちよかった! 佐藤先生にはもちろんそのことを言い出せず、そのまま疎遠になってしまいましたけど。

シャンソン喫茶として有名な銀座の銀巴里からも声がかかり、掛け持ちで出演していたとか?
日航ホテルでワンステージ終わると、銀座7丁目の交差点を渡ってピンヒールとドレス姿で銀巴里へ。1日5回くらいのステージを、譜面持って行ったり来たりしていました。ご飯を食べる暇もないくらい忙しかったけれど、若いからそんなことも苦にならない。楽しくて、楽しくて仕方がなかったです。
銀巴里には和田(誠)さん(イラストレーター、エッセイスト、映画監督)と結婚してからもしばらくは出演していました。赤ん坊だったうちの子供を抱っこして和田さんが聴きにきてくれたことも。せっかくムードを出して恋の歌を歌おうというときに、「カアカ〜ン!」って子供が大きい声で叫ぶもんだから、困ったこともありました(笑)。

レコードデビューをしたのは1970年。銀巴里で歌っていた頃ですね。
コロムビアから「レコードを出しませんか」とスカウトされたときはうれしかったです。ところが「今はシャンソンが下火だから、とりあえず1曲目は流行歌にしてほしい」と言われて、『誘惑のバイヨン』をリリースしたんです。
2曲目の『チョッと気になるロック』も、3曲目の『明日の旅』も歌謡曲。ついに4曲目には『カモネギ音頭』(『コン!コン!』の B面曲)という曲まで出すことになったんです。
「鴨がネギしょってやってくるやってくる じゃんじゃん飲ませろ酔わせて放り出せ カモネギ音頭でがばちょのパッ〜♪」なんて、すごい歌詞の曲なのよ(笑)。
銀座のママに扮したレミさんの色っぽい語りから始まり、コミカルな音頭が展開されていく名曲です。
それが中ヒットしちゃったものだから、銀座の歩行者天国でネギをいっぱい入れたカゴを背負ってレコードの宣伝をしてくれと言われて。「それだけはヤダ」と断って、歌手をやめちゃいました。

目覚ましがわりに祖父のストラディバリウスを聴いていた父
ちなみにレミさんのお祖父さま(サンフランシスコ日米協会の初代会長を務めたフランス系アメリカ人のヘンリィ・パイク・プイ氏)も、音楽に造詣が深かったとか?
趣味でバイオリンを弾いていたらしく、うちの父はおじいさんが弾くストラディバリウスの音色を目覚ましがわりに聴いていたとよく話していました。パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski)やサン=サーンス(Charles Camille Saint-Saënsi)と共演したとか、ハイフェッツ(Jascha Heifetz)にその楽器を貸したとか、よくそんな話をしてくれました。
おじいさんが亡くなった場所は一時帰国していたアメリカだったのですが、病院で「魂は日本に帰る」と言ったそうなんです。
息を引き取ったちょうど同じ頃、日本に置いてあったおじいさんのストラディバリウスが、ケースに入っているのに “ブーン” と鳴ったそう。その音を父と父の弟(翻訳家の平野武雄氏)が聞いていて、「あれは不思議だった」と話していました。
すごい話ですね。そのストラディバリウスは今もご自宅にあるんですか?
うちの父が人に貸したまま返ってこないんです。「警察に訴えて取り返そう!」と言っても「レミは怖いよ。昔の話なんてどうだっていいよ」と言うの。父は本当に無欲な人でした。

お父さまはレミさんが結婚する際、夫の和田誠さんに「レミから歌だけは取らないで」と伝えたとか。
そうそう。実家に行ったときに和田さんが言われたみたい。私は台所で料理を作っていたのか、その言葉は聞いていないんです。ずいぶん経ってから和田さんから聞いて涙が出ました。
ところがご結婚後、『カモネギ音頭』を最後に歌はスパッと辞められてしまうんですよね?
歌より結婚生活のほうが楽しいと思っちゃって。朝から晩まで台所にいて、大きな声で歌を歌いながら料理ばかり作っていました。
結婚当初は渥美清さんや黒柳徹子さん、八木正生さんや坂本九さんたちが家に来て、よく家庭料理をご馳走していましたね。
村上春樹さんに譲った、夫の膨大なレコードコレクション
夫の和田さんもかなりの音楽好きだったとか?
フランク・シナトラ(Francis Sinatra)とかサミー・デイヴィスJr.(Sammy Davis Jr.)が来日してコンサートするときには必ず一緒に行きました。
夫はギターとピアノを持っていて、結婚当初は和田さんが初任給で買ったヤマハのピアノと、私が実家から持って行ったドイツ製のピアノの2台が家にあったんです。
音楽家のお友達もたくさんいて、妊娠中にピアニストの中村紘子さんのお宅にお邪魔したときには、レコードに「和田誠さま レミさま ?さま」ってサインを書いていただいたことも。?さまは数ヶ月後に男の子で決着。今でも大切に保管してあります。
レコードのコレクションも膨大だったでしょうね?
和田さんは必ず仕事をするときに音楽を流していて、何千枚もレコードのコレクションがありました。和田さんが亡くなったときには、仲の良かった村上春樹さんに一部のレコードをお譲りしたくらい。大作家がうちに来て、膝をつきながら2日間かけて365枚を選び出したの。*その姿が信じられなくて、写真に撮ろうかと思ったくらい(笑)。
*和田氏が好きだったフランク・シナトラなどのジャズをはじめ、ミュージカル、フォークなど、多彩なジャンルのレコード365枚が早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)に寄贈された。

音楽と縁の深い和田家らしく、息子さん(元TRICERAROPSの和田唱氏)もミュージシャンとして活躍されています。
学生時代、翌日から期末試験なのに遅くまで息子が帰ってこなかったことがあったんです。やっと帰宅したと思ったら手にギターのパンフレットをいっぱい抱えていて。
「お母さん、どれ買ってくれる?」なんて言うものだから、「明日試験でしょう。何やってんの!」と部屋に押し込めたんです。しばらくして部屋をのぞいたら、和田さんの古いギターを持ちながら寝ていました。
和田さんはその姿を見て「これでいいんだよ」って言うの。そのときは意味がわからなかったけれど、息子がミュージシャンとして一丁前になったときに「ほらごらん」と言われて理解できました。
あそこでギターを取り上げて無理やり勉強させていたら、好きではない仕事を嫌々やる大人になっていたかもしれません。たとえ貧乏になろうと、好きなことを徹底的にやるのが一番いいことなのよね。
そういえばうちの息子がまだ駆け出しの頃、森山良子さんが息子のギターを伴奏に庭で歌を歌ってくれたんです。みんなでワインを飲みながら聴くプロの歌は、最高でしたね。

和田家の他のみなさんも、音楽好きですか?
長男のお嫁さんの(上野)樹里ちゃんとは、この前カラオケに行きました。私はずっと越路吹雪などのシャンソンを歌っていましたけど(笑)。
あーちゃん(次男の妻で料理家の和田明日香氏)も、ローリン・ヒル(Lauryn Hill)のライブを見に行くためにひとりで海外に弾丸旅行に行くほどの音楽好き。
孫娘ふたりはブラスバンド部でチェロとバリトンサックスをやっていて、中学1年の孫息子はギターに夢中です。テレビを見るときもご飯を食べるときもずっとギターを離さないの。うちの息子の若い頃と同じ。好きなことがあるって、本当にいいことね。
夫が作ってくれた思い出の1曲

レミさんの人生に欠かせない、思い出の1曲を挙げていただくと?
和田さんが歌詞を書いてくれた『私一人』。メロディも綺麗ですごくいい曲なの。
「一人部屋にいる夜は 広い宇宙の中に 投げ出されてただよってる そんな気分になる時もあるわ だけど悲しくないのよ はるか銀河を渡ってゆけば 輝く星座が いつも私をそっと 包んでくれるから♪」
もう、涙が出ちゃう。和田さんが「レミ、俺が死んでも平気だよ」って言ってくれているみたい。そう私は理解しています。

2006年にリリースしたアルバム『私の旅』に収録されていますね。
当時、子供たちが自立して「またふたりになっちゃったね。もうやることないね」と言ったら、和田さんが「まだやることが残っているよ」と、CDを出すことを提案してくれたんです。
結婚当初に父から言われた「レミから歌だけは取らないで」という言葉が忘れられなかったみたい。売れるとか売れないとか関係なしに「いいCD作ろう」と言ってくれました。ちょうどレミパンが売れた頃だったしね(笑)。
レコーディングは、和田さんの知り合いのオーケストラをバックに収録。作詞と訳詩は和田さん、ジャケット写真は篠山紀信さんにお願いして、阿川佐和子さんと石川セリさん、清水ミチコさんがバックコーラスで友情出演してくれました。
2025年の12月には、『ニッポンシャンソンフェスティバル2025〜大人のためのシャンソンティックな歌たち〜』で、35年ぶりにシャンソンの舞台に立たれます。
いつもならオファーを受けても「歌うわけないじゃない! ドレス着てまつ毛つけて歌うなんて嫌よ」と断っていたと思うんです。ところが今年の1月、日航ホテルのミュージックサロン時代から仲良くさせていただいているシャンソン歌手の仲マサコさんのライブを見に行ったの。
『いつ帰ってくるの』という曲を聴きながら、仲さんも私も夫を亡くした立場だから涙が出ちゃうくらい感動して。やっぱり歌っていいなと思いました。
その後に、銀巴里時代からの長い付き合いのシャンソン歌手・クミコちゃんから、今年の12月のイベントに誘われました。歌に改めて魅了されていたタイミングだったから、思い切って引き受けることにしたんです。
当日は5曲歌う予定で、久しぶりにレッスンに通っているところです。昔に比べて喉の調子がいいわけないけれど、35年前とは違って、人生経験を積んできた今の私なりの味が出せるかもしれないと思っています。

かつてのシャンソン仲間とは、今でもご縁が続いているんですね。
そうそう。夢に向かってまっすぐに進んでいる人たちっていいよね。歌を聴いていると、バックボーンなんてなんにも関係なくなっちゃう。その人にしかない声で奏でる歌は、みんないい。すごく大切な人たちです。
レミさんご自身も、歌と料理という、好きなことをまっすぐに追求されてきました。
本当にいい曲だなと思って歌を歌うと、拍手がブワーッとくるの。お料理も、一生懸命作って「絶対美味しくできた」と思ったものは、みんなも「美味しい」と喜んで笑顔になってくれる。そうやって喜びを共有できる幸せは、歌も料理も一緒よね。だからどっちも大好きです。
平野レミ
シャンソン歌手としてデビューし、イラストレーター・エッセイスト・映画監督の和田誠氏と結婚後は料理愛好家として活躍。「シェフ料理」ならぬ「シュフ料理」をモットーに、多くのメディアでアイデア料理を発信している。『ド・レミの歌』、『おいしい子育て』、『私のまんまで生きてきた。ありのままの自分で気持ちよく生きるための100の言葉』、『平野レミの自炊ごはん せっかちなわたしが毎日作っている72品』など著書多数。12月3日にはシャンソン歌手として『ニッポン・シャンソン・フェスティバル2025〜大人のためのシャンソンティックな歌たち〜』に出演。
Words & Edit:Kozue Matsuyama
Photos:Soichi Ishida