スズキユウリは、イギリスで活動を続けているサウンドアーティスト、エクスペリエンスデザイナーだ。彼が手掛ける作品、プロジェクトの多くは、音楽と音楽家に密接に関係して生み出されてきた。それは、自身が今もアシッド・ハウスのトラックを作り、リリースをしている音楽プロデューサーであり続けていることにも関係する。ベッドルーム・ミュージックで育まれた創造性や感性が、パブリック・アートの世界にも拡がっていく可能性を、スズキユウリの作品は示している。コアな音楽ファンをニンマリとさせる話もいくつか登場するインタビューをお届けする。

テクノからアート、ユニークなキャリアを経て

━スズキさんは音楽も制作されていますね。ネットで公開されているリリース音源、ライブセットを聴いて、“ああ、この人はガチでデトロイト・テクノやシカゴ・ハウスのことが好きなんだ”とまず感じました(笑)。音楽的な原点はその辺りでしょうか?

そうですね。日本にいたときテクノをずっとやってたんですけど、当時は石野卓球さんのパーティーのLOOPAとか、あの辺でかかる音楽がすごい好きで、Müller Recordsから1枚レコード(『Blue Line EP』)を出してたんです。ベルリンに住んでた時期もあって、DJとしてやってこうかなと思ったんですが、当時はハード・テクノをやる人が全然いなくて、ブッキングも入らず、それで諦めて、ロンドンに勉強のために来たんです。ロンドンでお世話になったのがRephlexっていうエイフェックス・ツインのレーベルのアーティスト、DMXクルーで、彼のイベントを日本でオーガナイズしたことがあって、それからの繋がりで彼の家でフラット・シェアを始めることになったんですね。ロンドンの北の外れにあるところで、こっちだと家賃が高いんでみんなで一つのアパートをシェアするのは普通なんです。アシッド・ハウスって実は僕あんまり興味なかったんですけど、DMXクルーの英才教育というか(笑)、彼がいろいろレコードを教えてくれて、アシッド・ハウスの深さっていうか、音が分かって、そこからシカゴ・ハウスをすごく好きで聴くようになりました。根底にあるのはアシッド・ハウスで、自分の中で影響が大きいですね。

━そもそも、ベルリンに行かれることになった理由は何だったのでしょう?

一番初めは音楽ですね。海外の音楽、特にベルリンというかドイツのテクノにすごく憧れてたのは高校生の時からあって、いつかは住んでみたいというのがあったんで。

━現在のようなアーティスト活動を前提に行ったわけではなかったのですか?

そうですね。当時は音楽活動が一番やりたかったことだったんですけど、それと同時に、明和電機で働いてたこともあって、プロダクト・デザインには凄く興味を持ってました。でも、日本で受けた教育があんまり面白くなかったので、その辺は諦めてたところがあったんですね。音楽だったら、日本人のプロデューサーでも国籍とか関係なく発信できるものではあったので、当時の自分はプロデューサーになりたかったんだと思うんです。

━ロンドンに行かれてから今の活動に繋がるようなことを学んでいったのですね。

こっちで学校に入り直して、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートっていう学校で勉強したのと、その前にベルリンにいたので音楽をやってたキャリアとを合わせられないかなと思ったのが合致したっていう感じではありますね。

━だんだんとアーティスト活動にシフトしていったのですか?

そうだと思います。2008年に卒業した時は厳しい時期で、リーマン・ショックにもろに当たって、実は卒業した後に内定が決まってたのもなくなって自分でやっていくしかないなって時に、いろんなところから声がかかって展覧会とかギャラリーで見せる機会がすごく増えてきたんです。特にこういう方向に行きたいっていうことじゃないんですけど、だんだんと方向が定まってきた感じだと思うんですよ。

アートと音楽を往来し、社会に提供する価値を模索し続けるアーティスト、YURI SUZUKIのクリエイションとは。
photo – Juan Trujillo Andrades

━僕は日本の状況しか知らないですが、エレクトロニック・ミュージックは90年代後半が一つのピークで、2000年代に入ると少し停滞をしたように感じてました。そうした音楽の状況も影響はしていますか?

ベルリンはもろそういう感じだったと思いますね。90年代はラブパレードとかいろんな栄華を極めて、僕が行ったのは完全にそのピークが終わっちゃった時で、あまりポジティブではなかったですね。自分が夢見てたベルリンの状況とはちょっと違ったっていうのがあって、ベルリンがエスタブリッシュしてしまって、街自体がディベロップメントとかにお金を使い始めて、カルチャーにお金があんまり行かなかったっていうのもあると思うんです。あとは、経済があんま回ってなくて、基本的にベルリンってお金を使う街でそこから産業が発達するのに全然ないっていうのがあったんですね。(今は違いますけど)ウィークエンドが木曜日のお昼から始まって月曜日のランチタイムまでみたいなノリでみんな遊んでるだけで、あんまりポジティブさを感じなかったです。フランク・ムラーさんってMüller Recordsのレーベルオーナーに閉まる直前のトレゾアに連れてってもらったことがあるんです。それがまさにベルリンを象徴してて昔の良きベルリンっていうのがここで終わっていくんだっていう感じがありましたね。ただ、僕がロンドンに移り住んだときは、まだ音楽に関して活気があったと思うんです。当時はグライム全盛期で90年代レイヴのリバイバルが始まった時期でもあって、結構音楽的にはポジティブな時期にロンドンにいられたというのがあります。

━スズキさんの手掛けてきた作品には、音楽あるいは音楽家との関係から生まれた作品が多いですね。それらについて詳しく伺わせてください。まず、ルイジ・ルッソロの騒音楽器「イントナルモーリ」からインスパイアされた「Garden of Russolo」のことから伺えますか?

これは2010年くらいに作ったやつで、ロンドンにヴィクトリア&アルバート博物館っていう装飾美術館があるんですけど、そこのコミッションで作ったものなんです。あんまり声を出しちゃいけない場所で、そここそ音に関してもっとセンシティヴになれる場所だなと思って作った作品ですね。

ルイジ・ルッソロ
イタリア未来派の作曲家、画家(1885〜1947年)。騒音を生成する「イントナルモーリ」というホーンを多数備えたボックス型の楽器を発明した。

 

━ルイジ・ルッソロには以前から興味があったのですか?

装飾的、形的に興味がありましたね。ファンクション的にはそこまでルッソロとの関連はないんですけど。実はあのホーンはインドのスピーカーなんですよ。2009年にインドでレジデンシーをやったことがあって、インドのニューデリーの街ってすごい煩くて、騒音は自分は好きな人間なんですけど、インドで初めてあまりの騒音に耐えられなくなって、それで、街中に騒音が出るとその音をマスキングして消すような物を作れないかなと思ってやったのがあの作品で、ホワイトノイズが出るだけでちゃんと音は聞けないんですけど、それがモデルで作ったのが最初のアイデアだったりするんですね。それを発展させたのがヴィクトリア&アルバート博物館のインスタレーションで、あの形のホーンはインドのモスクとかで使っているコーランを流すような大きいスピーカーで、インドで結構よく出回ってるスピーカなんですよ。ルイージ・ルッソロはノイズが音楽な訳ですが、それと逆なことをやりたいなと思ってあの形になったということですね。

ジェフ・ミルズ、ウィル・アイ・アムなど、様々なアーティストとのコラボレーション

━ジェフ・ミルズとやられた「The Visitor」では、彼が愛用しているRoland TR-909を組み込んだ新たな機材を作られましたね。

あれもプロセスとしてはすごく長くて、ジェフさんに最初に会ったのが、2008年のソナー・フェスティバルでした。僕が展示する機会があったんです。卒業した時に、フィジカル・バリュー・オブ・サウンドっていうシリーズでレコードを使ったおもちゃみたいなのを作ったんですけど、ジェフさんはレコードで実験をたくさんしている人ですよね。クリスチャン・マークレーとジェフ・ミルズが自分の中で凄く影響力ある人で、それから作った作品で、ジェフさんが興味持ってくれて、その後も親交ができました。僕は2010年か2011年くらいにディズニーのリサーチ部署にいた関係でピッツバーグに住んでいて、アメリカを流放しようと思って、いろんな所にも行ったんです。最初に行ったのがシカゴで、当時ジェフさんがシカゴに住まれていたんで、車でいろんなところを見せてくれたり、Gramaphoneっていうシカゴ・ハウスを売ってるレコード屋に連れてってくれたりして、ちょっとずつ話をするようになったんです。どっかのタイミングで、ジェフさんがオーケストラでプレイする楽器を作りたいっていう話になったんだと思います。楽器っていう言い方をしていなくて、彫刻っていうか、その間に位置するようなものっていう話をしていたと思うんですよ。で、ちょっとずつ、いろんなことをやってたんですけど、一緒にロンドンでご飯食べに行ったときに、ジェフさんが思い出したように描いたイラストがあって、それが「Battle of Los Angeles」(ロサンゼルスの戦い)っていう、第二次世界大戦中にアメリカ陸軍が空に向かって集中攻撃したけど何も見つからなかったという話で、それのすごく綺麗な美しい写真があって、これがインスピレーションだっていう話になり、それから形をデザインしていったんです。ジェフさんは当時シカゴとパリに拠点があったので、ロイヤル・アルバート・ホールでジェフさんがコンサートを行った時に見に行って、そのTR-909を渡されて、これをもとにデザインしてくれって言って作ったのが「The Visitor」ですね。

ジェフ・ミルズ
アメリカの電子音楽家、作曲家、DJ(1963年〜)。デトロイト・テクノのオリジネイターであり、ドラムマシンTR-909を使った独創的なDJやオーケストラとのプロジェクトでも知られる。
クリスチャン・マークレー
アメリカの現代音楽家、美術家(1955年〜)。ターンテーブルを楽器として使うパフォーマンスを行った先駆者であり、視覚メディアも含めた多様な作品を発表している。

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━他にも、音楽のアーティストとやられている作品がありますね。

一つはウィル・アイ・アムさんとやった「The Pyramidi」があって、あとは、コラボレーションではないですけどディーヴォのマーク・マザーズボーさんがかなり協力してくれたプロジェクト「Electronium Project」ですね。レイモンド・スコットが最後に作ろうとしていたエレクトロニウムっていう自動編曲装置があって、それをどうにか実現できないかなと思っていたときに、マークさんがあれの実機を持っていて、動かないんですけど、全部見せてくれたり、まったく公表されてないドキュメントも全部見せてくれて、それから作品として落とし込んだんです。

幻の自動編曲装置「エレクトロニウム」を現代に蘇らせる

━エレクトロニウムは写真で見る限り、木製のキャビネットに入った巨大な電子機器のようで非常に謎めいていますが、実際どういう作りなのでしょうか?

パネルは多分金属板になってて、ちゃんと印刷も綺麗にされてる感じなんですよ。本当にデザインはすごい綺麗なんですけど、中身はめちゃくちゃになってて、とても使えるような代物ではない感じでした。でも、インターフェイスはかっこ良く出来ているんです。マークさんはレイモンド・スコットの晩年に家に行って何度か本人と会ってます。当時は多分レイモンド・スコットは心筋梗塞を何度かやってて、とても人と話せる状態じゃないようでした。ガレージを当時の奥さんに見せてもらったときに、エレクトロニウムが埃かぶってる状態で置いてあって、そのあとレイモンド・スコットが亡くなったときにその奥様が捨てようとしたらしくて、それをどうにかマークさんが止めてお金払って全部引き取ったっていう経緯があります。RadioShackのコンピュータやYamahaのDX7とか付いてて、結構開発が進められていたらしいんですけど、その辺も全部取っ払われちゃって、何が最終の形かっていうのもわかんなかったみたいですね。

レイモンド・スコット
アメリカの作曲家、ピアニスト(1908〜1994年)。電子音楽のパイオニアであり、クラヴィヴォックスやエレクトロニウムなどオリジナルの電子楽器を発明した。

 

━レイモンド・スコットは、ウィロウ・パーク・センターという仕事場を持ち、Motownレコードの創始者のベリー・ゴーディがお金を出してエレクトロニウムの制作に取りかかったり、音楽、特にエレクトロニック・ミュージックの作り手にとっては、理想的な制作環境を手に入れた人ですね。その未完のプロジェクトを作品化するというのは相当に大変ではなかったですか?

そうですね。やっぱり自分でやりたいってだけでは作れないものだったんで、まず僕がやったことは、レイモンド・スコットの御子息、デブとスタンさんって2人お子さんがいらっしゃるんですけど、「ScottWorks」というレイモンド・スコットのフェスティバルに実際に行って、“こういうことをやりたいんです”っていう話をしました。どのプロジェクトもそうなんですけど、だんだん信頼を持ってもらわないといけないので、ちょっとずつ話をしながら“こういうことをやって、こういうプランでやりたいんです”、“じゃあやっていいよ”ってところまで話を持っていきます。マークさんに関しても、ちょっとずつ親交を深めたところはあるんです。レイモンド・スコットの御子息をリスペクトしなきゃいけないし、彼らがノーと言えばやるつもりはなかったので、その意味では実現できて良かったと思います。

━「Electronium Project」はソフトウェアによるシミュレーションですが、それ故に得られたこともあるのではありませんか?

AIっていうか、あれはGoogleのマジェンタっていうアルゴリズム使ってるんですけど、その辺の知識が増えたのは良かったなと思ったのと、自分が最初プログラムしてやるんですけど、結果的に音が当時レイモンド・スコットが作った音に近いものになっていったのは凄く良かったなと思いました。あとは、細野晴臣さんがレイモンド・スコットのことを好きで、彼が作ったMUJIのBGMを収めた音源集(『MUJI BGM1980-2000』)があるんですけど、実は聴いたことなかったんですが音が似てたんですよね。僕が作ったエレクトロニウムと凄く似てて、そういうのでリンクが確認できたのも良かったなと思いましたね。

Brexitからパブリック・アートまで。社会と作品の関係

━イギリスのEU離脱=Brexitに反対する「Acid Brexit」も興味深い作品です。これに関しては、スズキさん自身が「発表するにあたり、外国人としての自らの立場の弱さから躊躇がありました」と説明されてますが、実際、躊躇はあったわけですね?

そうですね。イギリスでは、こういうデザイン職とかやってる以上、EU離脱を応援している人と密接に繋がりがあるところがあって、僕もPentagramっていう会社にいるので、会社にとってこれをやることがロスになってはいけないのはあるんですよね。Pentagramに関しては、個々の政治理念っていうのをリスペクトしてくれる会社なので、それは自分の責任で自由にやっていいと言われたので良かったなと思うんですが、ただ、このプロジェクトをアングロサクソンのイギリス人やヨーロッパ出身の人がやったらちょっと問題になったんだろうなと思います。よくわかんないアジア人がやってるからみんな許してる感じがあると思うんです。というのがあって、出すのを躊躇った感じではあるんです。

━イギリス人のエレクトロニック・ミュージックのプロデューサー、マシュー・ハーバートは、Brexit反対を掲げたビッグバンドのプロジェクトをやってましたよね。僕も東京での公演を観ました。

マシューさん、うちの近所に住んでて、僕がやっているプロジェクトをよく応援してくれてるんです。

マシュー・ハーバート
イギリスの電子音楽家、作曲家、DJ(1972年〜)。日常のアイテムから電子音楽を制作するなどユニークなアイディアと、政治や環境問題をテーマとした作品でも知られる。

 

━そうなんですね。

僕が今住んでいるのはマーゲートっていうところなんですけど、彼はウィスタブルっていう隣町に住んでで、時々会って話したりするんです。マシューさん自体は政治的に正しいことしかやらない人なので、なかなか彼も大変なことはあると思うんですけど、でも彼はインディペンデントで、レコード会社に所属しないで自分のレーベルを持ってやってますからね。

━音楽だと究極的には一人で、ハーバートのようにセルフ・マネージメントでやることも可能ですけど、アートだとそれは難しいところがあるかと思います。

アートに関していうと、ジェレミー・デラーは凄くリスペクトしていて、彼はクリアにEU離脱に関して反対し続けてる感じがします。でも、EU離脱に賛成しているアーティストもたくさんいるわけで、買ってくれるバイヤーも富裕層で、賛成している人も多かったりするので、そこは大変でしょうね。

ジェレミー・デラー
イギリスのアーティスト(1966年〜)。映像からインスタレーションまで様々な形式で、政治的主張の強い作品を発表している。2007年から2011年まで、テート・ギャラリーの評議員を務める。

 

━スズキさんのようにパーソナルな音楽制作からスタートしている作り手の人が、パブリックなところに作品を作ることに、どう折り合いをつけてきたのかにも興味があります。

パブリック・アートを2018年くらいからずっと結構な量作っていて、それはパーマネントであったり期間限定だったりっていうのはあるんですけど、仮にもその街の中に出現して、それに対して人がリアクションするというものなので、敢えてそこでポリティカルな部分を押し出したりするようなことは考えてすらいません。パブリック・アートっていうのはコミュニティに対して何かコントリビューションするものだと思っているので、僕が考えているのは、パブリック・アートを通じてコミュニティが繋がればいいなと思っているんですよ。わかりやすくてウェルカムに感じるものを作り続けているんです。多分右傾化はこのイギリスから始まったと思うんですけど、トランプみたいな人が2016年に大統領に選ばれてしまう問題は基本的に人と人とのコミュニケーションの問題だと思っていて、一番いいサンプルが2016年のトランプのキャンペーンだったと思うんですが、トランプに対して反対の立場ですけどコミュニケーションのデザインに関して彼が一番長けていたとは思うんです。ポリティカル、ポリシーに関しては完全に間違ったことをやっていますけど。それが原因で、国とかコミュニティが完全に真っ二つに割れることになってしまっているので、そこは考えなきゃいけないなと思ってて、アートのファンクションでもそういうことは考えてます。

━パブリック・アート、あと音楽とも関わりのあるアーティストとして、アートの歴史の中での位置というか、例えば誰の影響下、流れにあるとご自分では思いますか?

パブリック・アートに関しては、自分がやろうとしていることは、アレクサンダー・カルダーとかああいうオブジェクト的なもので、多分ファイン・アートの文脈とはちょっと違うと思うんですよ。ファイン・アート、現代アートは文脈から辿るとマルセル・デュシャンから始まって、という感じになると思うんですけど、僕がアプローチしたのはそういうところからは外れてはいるので。パブリック・アートってちょっと文脈全然違う気がするんですよね。ミュージアムにあるものとはまた違うので、文脈で言うと多分アレクサンダー・カルダーから始まってジュリオ・ル・パルクとかに近い感じだと思うんです。ただ、作品の中でやってる音に関しては、自分がすごく尊敬しているクリスチャン・マークレーで、ああいうものを作りたいなと思っているんです。

アレクサンダー・カルダー
アメリカの彫刻家・現代美術家(1898〜1976年)。動く彫刻「モビール」の発明と制作で知られており、屋外から空港まで公共空間におけるモニュメンタルなパブリックアートを世界各地に残している。
ジュリオ・ル・パルク
アメリカの彫刻家・現代美術家(1928年〜)。キネティック・アートとオプティカルアートの先駆者でG.R.A.V.(Visual Art Research Group、視覚芸術探求グループ) の創設メンバーであり、1966年にはヴェネツィア・ビエンナーレの国際賞を受賞している。

━クリスチャン・マークレーは、ターンテーブルを使ったパフォーミング・アーティストの第一人者でもありますが、どこに惹かれたのでしょうか?

尊敬してるのは説明の要らないことをやってるっていうことと、音の具現化をやってると思うんですよ。その辺がセンスも素晴らしくて、音を具現化したり、ビジュアルに表すっていうのはミッションとして長くいろんなことをいろんな人がやってるんですけど、あの人ほど完璧に出来ている人は世の中にいないなと思ってるんです。多分、それは音楽のカルチャーだったり、それこそ音のそのものだったりっていうことをビジュアル・アートとかスカルプチャーとか具現化することに成功している人だからですね。あと、コミュニケーションも完璧だと思ってて、全部説明がいらない素晴らしさで、あの人の作品は凄いなと思っていますね。

現在取り組むプロジェクトとアシッド・ハウス

━今現在やられてるプロジェクトについても伺えますか?

2月の半ばに羽田空港でインスタレーションやるんですよ。MOMAのキュレーターのパオラ・アントネッリさんがディレクションして、僕と細井美裕さんっていうアーティスト2人でインスタレーションを羽田空港に作るのを今やってます。

細井美裕
日本のアーティスト(1993年〜)。サウンドインスタレーション作品制作のほか、自身の声の多重録音/マルチチャンネル音響を特徴とした映画や広告の音楽制作、オーディオ/ビジュアルに関わる展示のディレクションを行う。

━それは音もですよね?

そうですね。音も細井さんとやってます。もう一つ、ロンドンで3月に結構大きいパブリック・スカルプチャーを作るのがあって、あとは音楽トイみたいなプロダクトを作って、キックスターターで展開できればと思ってます。

━このインタビュー・シリーズに共通するテーマである「超越」ということについて、何か話せることはありますか?

年取ってきたってこともあるんですけど、徹夜とかするっていうのを全然しなくなったんですが、昔は寝ずにスタジオで毎日そこに泊まったりしていたりしたんです。僕はちょうど日本を出る直前まで明和電機で働いてて、展覧会を広島でやったのがたぶん一番辛かった現場だったと思うんです。全然寝られないし、お日様も見られないし、広島現代美術館は幽霊が出るって噂があるところで、身体の調子がみんな凄く悪くなって、ほぼ24時間ずっと働き続けた状況だったので、あれが辛い状況だったのかなとか思いつつ、何だろうな、超越って(笑)。

━限界を超えた体験ということですね(笑)。では、今、一番お気に入りの音楽を教えてください。

ずっと普段もアシッド・ハウスしか聴いてなくて、作る音楽もアシッド・ハウスばっかりで、ロックダウン始まってから自分の時間がちょっと増えたので、一日一曲はアシッド・ハウス作ってて、もう究極のマンネリの音楽だと思ってるんですよ(笑)。アシッド・ハウスはイギリスの80年代後半から90年代の若者の文化の象徴でありまして、音楽ジャンルとしてではなく2nd Summer of Loveが象徴するような大きなムーブメントになっていきました。当時の世相は現在のイギリスの状況に似ていて老年層が政治の舵を切り保守党が力を伸ばし、国を滅ぼして行きました。そんな中若者から発信していき、作り上げたのがアシッド・ハウスパーティーでした。アシッド・ハウスのプロデューサーもKLF、Phychic TV、Undergroud Resistanceなど現状の政治に強く反対する人が多かったのも特徴です。という意味で、現状イギリス保守党が国を滅ぼしていく状況でアシッド・ハウスのようなプロテストの意味を込めた娯楽の為の音楽ダンス・ミュージックに非常に興味を持ちました。結果的にTR-808、909、303があれば出来てしまう音楽で、それを毎日作ったり、でも実はちょくちょくリリースは決まってて。

━ぜひ、詳細を教えてください。

シカゴのレーベルTraxから出たばかりで、あと、マシュー・ハーバートさんのレーベルからも出る予定です。あと自分のレーベルからアルバムも出したいと思ってます。

Words:Masaaki Hara