シティ・ポップのレジェンド、アイコン、ポップ・プリンセス……、そんな形容と共に、杏里の音楽は、海外で熱心に紹介されている。ヴェイパーウェイヴなどのマニアックな音楽コミュニティから、YouTubeやTikTokでの拡がりを経て、いまでは数多くいるシティ・ポップをかけるDJたちがさらに彼女の音楽をプレイして、新たなリスナーを生んでいる。当のご本人は、海外での再評価をどう捉えているのだろうか。また、デビュー当時からアメリカと繋がり、その現場で録音、制作を続けてきた活動は、この再評価の流れと関係があるのだろうか。アメリカでの実際の反応も踏まえ、改めて、キャリアも振り返る話を伺った。

洋楽好きの少女が「ANRI」になるまで

子供の頃の音楽との出会いから伺わせてください。

子供の頃からピアノを家で習っていて、その後も独学で弾いたりしていました。それまではクラシックというか、ピアノをやっているバックグラウンドがありましたが、兄達が洋楽のアルバムもたくさん持っていまして、ポール・モーリアとか、よく兄の部屋で聴いていたんです。それがきっかけで音楽、洋楽に目覚めたんですが、プロのボーカリストになろうとは特に意識していませんでしたね。その頃、音楽の旋律を耳でコピーするというのが習慣になっていて、当時家族ぐるみで懇意にしていたテレビ局のプロデューサーさんが、私が音楽好きという事を聞いて私の知らない内にいろんなところに話がまわり、プロダクションに話が持ちかけられたみたいです。そこでレコード会社の方からやってみないかとお誘いいただいて始まったという感じです。自らオーディションを受けたりということはありませんでしたね。ある日、スタジオで歌ってみないかとお誘いを受けて、デビューの話が進んでいきました。

トントン拍子だったのですね。

当時、オーディション番組などがありましたけど、私は少し違ったデビューの仕方ですね。

そして、デビュー・アルバムの『杏里 -apricot jam-』はいきなりアメリカでレコーディングされましたね。

そうですね。デビューまで慌ただしかったというか、結果的にスタジオでの歌入れがオーディションだったようです。その数ヶ月後にはレコーディングをするためにアメリカへ行ってました。今じゃ考えられない。稀ですね、こういうパターンは。

当時、アメリカに対しての特別な想いはありましたか?また、実際のレコーディングでは、どのような刺激を受けましたか?

米軍基地に知り合いがいて、デビュー以前から洋楽をよく聴いていたので、常に音楽が身近にあったのは確かに影響が大きかったと思いますね。洋楽を聴いているうちに、アメリカのカルチャーに対する憧れが自分の中で膨らんでいきました。現地のスタジオに入った時に、ピアノの音だったりアコースティックギターの音の響き方が聴いていて気持ち良くて、レコーディングの合間に自分でピアノを弾いた時にはスコンと抜けたような心地良い音の響き方で驚きました。環境や気候によって楽器の響き方が違うんだなというのが鮮明に記憶に残っています。同時にドラムの低音や歌唱と共にサウンド自体にもこだわっているのを感じました。立体感というか、グルーヴ感は自分がやっていたものより衝撃的でした。それまではもちろん日本でレコーディングもしたこともありませんでしたが、純粋にアメリカのプレイヤーはこうやってプレイしてるんだなと。レコードを聴いて、そこからイメージしていた以上に、カルチャーショックを受けましたね。

ポール・モーリアの話が出ましたが、他によく聴いていたアーティストはいましたか?

兄の部屋に行くといろんなジャンルのレコードがあったので、洋楽邦楽問わず聴いてました。私の世代は邦楽だともちろんユーミンを聴いていました。フォーク系だと風とか、洋楽だとオリビア・ニュートン=ジョンとか、エアサプライとか。ブラック・ミュージックだと、アース・ウィンド・アンド・ファイアーとかも聴いていましたね。どちらかというとバラードが好きだったので、よくコピーしてました。

様々なプロデューサーとの出会いと協働を通じて“求めていたサウンド”へ

セカンド・アルバム『Feelin’』のプロデュースは鈴木茂さんで、次の『哀しみの孔雀』は鈴木慶一さんが携わっていて、ファーストとは違ったアプローチでしたが、当時はいろいろなサウンドを模索していた時期だったのでしょうか?

デビュー当初は音楽の世界にまだ慣れていなかったという事もあって、どちらかというと、レコード会社や常富さん(常富喜雄 / フォーライフ・レコード・プロデューサー)がプロデュースしてくれて、杏里というアーティストをどう作り上げていこうか、彼らが模索していた時期だったと思うんですよ。『Heaven Beach』(4枚目のスタジオ・アルバム)で自分の作りたい音楽が見えてきて、スタッフ間で話し合って一緒に作っていく流れになりました。『Bi・Ki・Ni』(5枚目のスタジオ・アルバム)の時は、小林武史くんがキーボード担当で、ツアーで一緒に過ごす時間が多かったんですが、彼の音楽性やプロデュース気質の才能のある方だなと感じていて、一曲作ってもらったのが“思いきりアメリカン”です。その後に角松敏生くんとの出会いもあって意気投合しました。角松くんの音楽は素晴らしくて、自分が求めてるサウンドに限りなく近いものがあったので、アレンジやプロデュースをして欲しいと思い、『Bi・Ki・Ni』で小林くんと角松くんに参加してもらうことになったんです。この二人としっかりタッグを組んで仕上がったアルバムです。それがきっかけで角松くんからとても良い作品が出来てきたので、全部アルバムをお任せしようと言うことで、最初のアルバム『Timely!!』(6枚目のオリジナル・アルバム)、その後に『COOOL』(7枚目のオリジナル・アルバム)を出すことになりました。小林くんも、角松くんも、小倉泰治っていう後に一緒に音楽を作るパートナーになる人も、ほんとに大切な仲間です。

角松さんの音楽のどこに共感したのでしょうか?

ブラック・ミュージックのバラードや、ダンス・ミュージックが好きだったので、グルーヴ感のある彼の洗練されたサウンドに共感して一緒に音楽やったらどうなるのかな、面白い化学反応が起きるんじゃないかなということで、やってみたのが『Timely!!』です。

“CAT’S EYE”のヒット、そしてダンスミュージックと歌謡曲の間で

『Timely!!』に収録されてる“CAT’S EYE”はアメリカでも再評価されました。この曲はもともと杏里さんが歌う上で、戸惑いがあったと聞きました。

スタジオに入って楽曲を聴いて、当時あまり馴染みがなかったアニメの曲だと知り、びっくりしました。結果的にレコーディングはうまくいってランキング一位になったという感じです。“CAT’S EYE”に関しては『Timely!!』のアルバムでは独立している感じがしますね。“CAT’SEYE”のオリジナルは角松くんではなく、別の人がアレンジしていますが、角松くんの独特な音楽の世界観で再評価されたというのはあるんでしょうね。

ダンス・ミュージックについては、原体験というものはあったのでしょうか?

先程の米軍基地の話になりますが、当時住んでいた家の近くに小さなディスコがあって、こっそり兄がそこに連れて行ってくれていて、そこでは、日本でまだ流通されていないレコードがリアルタイムで流れていました。モータウン系の音楽が結構流れていて、この経験がブラック・ミュージックを好きになったきっかけなのかもしれないです。DJボックスでターンテーブルを回してる人に、カセットを持っていって録音してもらい、時間があるときに聴いていましたね。ソウルミュージックやフュージョン系、AOR、フィラデルフィア系の音楽をよく聴いていたので、角松くんの音楽に共感できたのかもしれないです。

ディスコのDJから音楽を教えられたのですね。

自分もそうでしたが、当時は特にミュージシャンとかアーティストは洋楽を聴いて音楽を始めたいと思う人が多くて、何枚かアルバムを作ってる間になんとなく自分が聴いてきた音楽に興味を持ち出して、自分でプロデュースを始めたのが『SUMMER FAREWELLS』(11枚目のオリジナル・アルバム)です。そこから音楽の方向性が幅広くなっていきました。角松くんと出会うまでは自分の音楽の方向性が定まってなくて、音楽で何をやればいいかと悩んでいる時に節目節目で出会いがあって、音楽の方向性が自分の中で進化していったような気がします。

杏里さんの最近の作品『Smooth & Groove』もグルーヴ感があり、かつて好きだった音楽が今も大元にあると感じました。そうした杏里さんが好きだった音楽をやることと、一方で歌謡曲のシンガーとして歌う音楽とのバランスには難しいものもあったのではないでしょうか?

やっていく中で方向性が見えてきて、洋楽をたくさん聴いてたこともあり、ずっと自分がインスパイアされて吸収してきた音楽をやりたいと思うようになりました。ちょうどその頃に、角松くんと出会ったことは、ある意味、本当にその時の出会いが『Timely!!』でした。お互い、運命的な出会いだと感じています。音楽性やアーティストとしてどうやってこれからステップを踏んでいこうか、というモヤモヤとした迷いのようなものを解決してくれたように思いますね。プロでやっている以上、どうしてもチャートや結果が求められてしまうわけで、そんな中で自分も楽しんでいかないといけない。いい音楽を作るために環境を整えて、制作チームや音楽仲間たちとアルバム制作により一層力を入れました。

角松さんや小林さんとの制作の次の展開として、自分でプロダクションを手がけ、曲を作っていきたいという考えはあったのでしょうか?

自分で歌いたい音楽やメロディは自分が一番わかっているので、自分でやった方がより良いと思って少しずつ曲を作り始めました。以前は年に2枚アルバムをリリースする事もありましたが、1枚1枚時間をかけて丁寧に作りたいという意識に変わっていきましたね。特に、80年代、90年代はそういう時代だったんじゃないでしょうか。そこで、小倉泰治くんと私と作詞家の吉元由美さんとでチームを組んでこれから音楽をやっていこうと決めたのが『SUMMER FAREWELLS』辺りからです。作品を生み出すことの大変さ、一枚のアルバムを作る大変さは今も同じだと思いますが、今はデジタル化されて制作過程が違う事もありますけど、当時はミュージシャン達とスタジオにいることが幸せな時代でした。その中で生まれる音楽、メロディ、サウンドやアレンジが、色んな風にスタジオの中で変化していく面白さがあるので、それは今も変わらず幸せを感じています。

『BOOGIE WOOGIE MAINLAND』(12枚目のオリジナル・アルバム)や『CIRCUIT of RAINBOW』(13枚目のオリジナル・アルバム)では、小倉さん、吉元さんとのチームがさらに良くなっていったわけですね。

アルバムを作る時、全体のバランスを考える必要があって、作曲に煮詰まってしまった時には、吉元さんからいただいた歌詞の全体的なコンセプト、ストーリー、タイトルで曲のイメージが浮かんできました。曲を作るときには自分の気持ち良いように、例えばコーラスとかアレンジ構成まで頭の中で出来上がってたので、それを小倉くんに細かく伝えて、そこからデモテープでみんながある程度納得できるものを作って、要するにプリプロダクションまでしっかり作り上げてからスタジオでのレコーディングに挑んでいました。『BOOGIE WOOGIE MAINLAND』はドラムのジョン・ロビンソン達とレコーディングをしたとき、天井が高くて壁がコンクリートのスタジオでおこなったんですが、すごく抜けのある良い音で、あのサウンドが生まれました。エンジニアの技術もあったと思います。(エンジニア:Dennis Kirk、スタジオ:The Complex Studio)

アメリカでの再評価、そして海外から見た日本の音楽の底力

アメリカに出向いて録音やデモ作りを頻繁にやられていて、海外でのリリースや活動を考えたことはなかったのでしょうか?

海外でも何かやりたいという気持ちもありましたが、アメリカを行ったり来たりしてレコーディングしていく内に、そういった欲が無くなってしまったというか、近づきすぎた感じはあります。今は配信もあったり、日本のカルチャーがシティポップとして評価されたり、SNSの影響も大きくてボーダーレスになったこともあるので、あまり関係なくなりましたね。

杏里さんの音楽への評価が海外で高まっています。杏里さんのようにアメリカの音楽に憧れて作った音楽が海外で評価されて、影響を受けて真似する人まで出てきています。当事者としてどう感じていますか?

好きな音楽をみんなで作ってやってきたことを評価していただくのは、純粋に嬉しいことですよね。

このインタビュー・シリーズでは、共通して「超越」というテーマでお話を伺っています。何か、この言葉から連想されることはありますか?

新しいことに挑戦することですね。これまでも自分を限界まで追い込んでいろんなことに挑戦してきましたが、やろうと思ったことを最後までやり切った時に次の目標が見えてくるので、まだ終わりではない。なので、ぐるぐる回ってる感じです。あとはまた10年後に聞いてください(笑)。

今までの活動でリスクを取ったことは何だったでしょうか?

色んな人との運命的な出会いがあって、日本ではまだ経験していないものを外国から日本に持ってくるということを意識しながら音楽をやっていた時期もありました。日本のミュージシャンと海外のミュージシャンが混ざってやる、グローバル・バンドも冒険でしたね。基本的に自分がやってきた音楽の軸は変わっていないので、シフトをニュートラルにしながら音楽を続けていきたいと思います。あとはハワイ公演を10年で7回やったんですけど、一回で終わると思ったものが続いたことですね。きっかけは仕事でハワイに滞在することが多くて、ハワイの友人達がラジオのDJ をやっていて、その友人の番組にちょっと遊びに行くつもりだったのが、どんどんローカルのファンが増えていって、ライブを勧められて公演が実現出来ました。大きなプロジェクトをやろうとするとスピード感も大事なので、そこでの判断は大切になります。ライブをする事が決まって公演実現までには周りに相当な苦労をかけたと思いますが、やると決めたらやり遂げたい。ハワイで7公演ライブをやってきたことは、自分の中でひとつハードルを超えたと思っています。

杏里

Words: Masaaki Hara
Cooperation: Hashim Bharoocha