今、世界的な再注目の最中にあるアナログ・レコード。デジタルで得られない音質や大きなジャケットなどその魅力は様々あるが、裏面にプロデューサーやバックミュージシャン、レーベル名を記した「クレジット」もその1つと言えるだろう。

「クレジット」――それは、レコードショップに並ぶ無数のレコードから自分が求める一枚を選ぶための重要な道標。「Credit5」と題した本連載では、蓄積した知識が偶然の出会いを必然へと変える「クレジット買い」体験について、アーティストやDJ、文化人たちが語っていく。

今回登場するのは、京都のレコード店「Meditations(メディテーションズ)」のバイヤーであり、『ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド』の編著者でもある門脇綱生。紹介された5枚のレコードを道標に、新しい音楽の旅を始めてみよう。

門脇綱生が考える「アナログ・レコードの魅力」

どんなかたちでも構わない。デジタルでも、アナログレコードでも、カセットでも、CDでも、サブスクでも。音楽に触れるという行為そのものが、いつだって僕の生活の軸になっています。大学で一度、京都に出てからは、毎週末朝11時から20時くらいまで三条のレコ屋を巡り、その後も閉店までブックオフで過ごし、朝まで一人カラオケしているような日々。疲労で足が棒になり、屈んで下の棚を見る時の酸欠にも似た感覚はかけがえのないものです。地元に戻ってからは、学生時代ほどは通えなくなりましたが、稀に足を運ぶ地元の唯一のレコ屋や、年2回開かれるレコード市をいつも楽しみにしています。

アナログレコードの魅力。よく聞くのは、 “音色の深み” 、 “高域の伸びやかさ” 、 “中低域の豊かさ” といった話や、 “こもった低音” 、 “埃っぽい空気感” 、 “部屋全体に染みるような音の広がり” といった、アナログフォーマットならではの性質から来るものです。そして、あえて、不便を選び、慎重に針を落とし、慎重に盤をひっくり返すとき、育まれていく愛着や感情があり、それは無機質な物に対しての心理的な壁を越えた何か特別なもの。そうしたアナログなモノ体験は、行為そのものが身体的な記憶として日々に刻まれていく経験としての美しさがあり、「レコードをかける」という時間が、自分をチューニングする静かな儀式になっていたりと、アナログレコードとの触れ合いには、人それぞれの形があり魅力的です。

さて、僕自身もそうした魅力を確かに感じています。だけど、僕自身が何より惹き付けられるのは、ただ静かにそこにありながら、確かな「存在感」を放っていることです。これは、僕がCDやカセットに感じているものが、 “可愛さ” や “気軽さ” 、 “安心感” といった類のもう少し親密なものだとしたら、アナログレコードに感じるのは、わざわざ多額の費用を掛けてまでプレスする気概、意欲、熱意(自主盤なら尚更です!)に感じる── “威容” や “力強さ” 、ある種の “まなざし” のようなものかもしれません。どっしりと構えるような存在感がもたらす、ひとりではないという “あたたかさ” 。そして、記録メディアとしての驚異的なほどの “しぶとさ” は、人の気配を失いかけている時、とても救いになっているかもしれません。

そして、それらから響き渡る音は何故か無視できない。サブスクだと、ついスキップしてしまう。けれど、レコードやカセットでは、なぜか最後まで聴いてしまう。音楽が記録媒体という形を取って、確かに “そこにある” 。デジタルとはまた違う、アナログフォーマット固有の音の鳴り様や中毒性が間違いなく作用しているにせよ、今ここで、形ある姿で回っていて、確かな気配があり、力強い存在感を放ちながらも、どこか健気で愛おしい。そんな彼らは目を離せない大切な友人のようなものなんです。

門脇綱生が「クレジット買い」した5枚のアナログ・レコード

とうじ魔とうじ『移動式女子高生』(1986)

とうじ魔とうじ『移動式女子高生』(1986)

後述するたまのメンバーが参加していたことと、印象的な表題をきっかけに1992年のCD再発盤を先に購入したんですが、後々、ジャケ違いの1986年のオリジナルのアナログ盤のジャケが〈幻の名盤解放同盟〉の根本敬氏によるものと気付いてびっくり。両方手に取ってしまった。特殊音楽家のとうじ魔とうじは、その奇矯な芸名とユーモアすら漂わせる表現スタイルとは裏腹に、日本のアンダーグラウンド音楽において最も深層心理的・儀式的な音響を体現してきた作家のひとりで、後の〈LLE Label〉や〈Oz Disc〉周辺の音響実験とも共振する独自の軌道を歩んできました。隠れた国産リチュアル/ダークアンビエント/エクスペリメンタルの名作である本作は、日用品を用いたサウンドパフォーマンスや、知久寿焼、石川浩司といった豪華な面々の共同制作による独自の音世界を作り上げています。しかし、特にダークアンビエント~リチュアル的な文脈からは見落とされているんじゃないかと思うし、同ジャンルの愛好家にはぜひとも知られて欲しいところ。

終末的焦燥の中、荒廃した都市を駆けるようなサイバーパンク的テクノポップで幕開けを飾るこのアルバムは、都市の喧騒と個人的な幻聴が音響化されていく様子が見事。日常の中に潜む狂気や不安、それらを表現したような魅力と宗教的儀式性、そこにフィルレコ素材やノイズ、断片的なメロディが交錯し、聴覚に微細な錯乱を引き起こすような音響体験が味わえるきわめてディープな世界観。ところで『移動式女子高生』という衝撃的な表題は、商品化されたフェティシズムの過剰さと、現代都市における匿名性や変質的欲望の象徴のよう。その名がつけられた作品が、これほど深く内面に沈潜する音響儀礼だったという事実は、80年代日本の地下音楽が持っていた二重性である、即物的狂騒と宗教的沈黙を如実に物語っています。芸能山城組『AKIRA』や川井憲次『Ghost In The Shell』のサントラ、GRIMやVASILISKのファンの方も買いましょう。また、版元の〈Air Record〉作品は他のどれも秀逸です。

Various Artists『The South Pacific Islands コーラル・アイランド』(1983)

Various Artists『The South Pacific Islands コーラル・アイランド』(1983)

日本の旅行会社「LOOK」が企画し、〈日本コロムビア〉から80年代初頭に発売されたイメージ・ミュージック(イメージ・アルバム?)シリーズ〈Look Bon Voyage〉の第1弾。南太平洋の島々をテーマに、波音や海鳥、現地ラジオなどの環境音を丁寧に取り入れた、音の旅のような作品。地元のレコード市で目に留まった作品で、最初はよくある80年代の俗流フィールドレコーディング系かと思ったけれども、値付けが高いこともあってむしろ気になり、いざ裏面に目をやると、あの高田みどりを擁するMkwaju Ensemble(ムクワジュ・アンサンブル)、和レゲエのレジェンドPecker、向井滋春、松岡直也といった面々の名前が(!)80年代当時にMkwaju Ensembleが参加していた数少ないコンピレーション作品という大変稀有な一枚。このアルバムが特別なのは、まさに土台となる音素材に重ねられた、それらの卓越した演奏者たちの存在であり、自然音とともに「想像上の風景」を静かに描いていきます。

このシリーズには、全10作が存在すると思われ、他作品でも、深町純、篠崎史子、東祥高といった名プレイヤーが名を連ねていて気になるところ。本作は全体を通じて、南国風の軽さではなく、静けさと余白を重んじた音作りが印象的。例えば、二部構成のA1。前半のPecker編では、ダブと波音が交わり、第4世界的な幻想感を生み、後半のMkwaju編では、ミニマルな響きが波のリズムと呼吸を合わせるように静かに展開されるなど、装飾を控えたその構成には、静かな深みが感じられます。白眉はB1に収録された「Mkwaju」の再構築版。現地の音素材が加わることで、ポリリズムや反復の構造に新しい奥行きが生まれており、アフリカンリズムとライヒ式ミニマルを折衷したプロトテクノのマスターピースである原曲を超えた密度がある。まさに、環境音と演奏が一体となった、音そのものによる風景の創出です。観光的な視点や派手な演出はなく、あるのは、音と向き合う静かな姿勢と、そこから生まれる澄んだ時間。帯に書かれた「忘却の彼方」とは、記憶の終わりではなく、静けさの始まりなのかもしれません。その意味で、この作品はその入り口に立つための、小さな音の地図とも言えるはず。

Various Artists『チョーク色のピープル』(1988)

Various Artists『チョーク色のピープル』(1988)

昨年、画業50周年を迎え、『ハートカクテル』のコンピも自身の手で編まれたばかりのわたせせいぞう。彼が描いたもうひとつの風景が、『チョーク色のピープル』でした。そのOVAに寄り添うように生まれた本作は、原作の色彩に音の温度を与えるような、もうひとつの『音のハートカクテル』。個人的にも全作品を収集しようと頑張っている小笠原寛が関わっていることもあって即購入。同氏は小笠原寛名義で70年代から長きにわたり活動し、『夢の碑』や『すくらんぶるゲーム』、『風呂上がりの夜空に』、『ねこぢる草 サウンドトラックCD』といったオブスキュアなイメージアルバム/サントラも数多く制作。90年代以降は「手使海ユトロ」として、シンセサイザーを駆使したニューエイジ作品を多く手掛けています。本作には、彼と共に、ユニット「K2」としても活動したピアニスト、島健も参加。〈ミサワホーム〉のレーベル部門から発表された国産ニューエイジ人気作『DAYDREAMIN’』でも知られるコンビが描いた繊細な音の風景。さらに、アストラッド・ジルベルト(Astrud Gilberto)が3曲で参加しているのも特筆すべき点でしょう。わたせ氏の強い希望によって実現したこの共演は、本作をより特別なものにしています。

なかでもA2とA6は、ギターとピアノがやわらかく溶け合い、ほんのりと寂しさを帯びた午後の光のようなメロウフュージョンの逸品で、風景そのものを描くような音の配置と質感が印象的。A5ではアストラッドの透き通った歌声とホーンが美しく交錯し、ボサノヴァの内包する軽やかで力強い祈りのような一面を引き出していく様子がピースフルかつ優美です。和ボッサ、ライトメロウ、バレアリック、ニューエイジ───その穏やかな交差点に生まれた静かな幸福を描く音楽と言える本作は、小笠原寛『僕のオールディーズはオールカラー』(1987)、島健『ハートカクテル Vol.4』(1987)と並び、80年代のわたせせいぞう関連のアニメレコードのなかでも、やや特異な感性を放っていると思います。過剰さではなく、ささやかな音と視線の重なりによって描かれる夏の午後の情景。甘く、やさしく、そして少しだけ切ない。静かな祝福のような一枚がここに。

平野文『音楽小説』(1985)

平野文『音楽小説』(1985)

元々、ここ数年、少しずつ声優楽曲を掘っていたんですが、こちらはプロデュースがムーンライダーズの白井良明ということで問答無用で購入しました。女優、ナレーター、文筆家、そして、もちろん声優としても長年活躍を続けてきた平野文。『うる星やつら』のラム役としての印象がいまだに根強いけれど、彼女の声は単なるアニメのキャラクターにとどまらず、まるで記憶の奥から語りかけてくるような、どこか不思議な懐かしさと硬質さを同時に内包しています。そんな彼女が残した80年代のソロアルバム『音楽小説』は、まさにその声の力と、時代の実験精神とが絶妙に結びついた、知られざる名盤でした。

白井氏といえば、ライダーズの中でもとりわけアレンジ面での奇才ぶりを発揮してきた人物で、そのセンスがここでも存分に発揮。A3の「正体不明の恋」は、まさにその象徴的な一曲。軽妙でチャーミングなエレクトロ・ビートの背後で、突然挿入される無調的なコード、ずれたブラス、奇妙な声のレイヤーが不穏さを呼び起こす、朗読劇とテクノポップのハイブリッドといった趣きの曲。A4「リバーシブル ハート」に至っては、その不気味さがさらに加速。どこか湿り気を帯びた音像に、パーカッシブで奇妙な展開、そこに絡んでくるダブ的なエフェクト処理と、和声感の不安定さが生む違和感が独特であり、ポストニューウェイヴやジャパニーズダブの最も面白い断面と重なっているような味わいです。特に出色なのがA6「Funky Dreamer」。この曲だけでも聴く価値がある、と断言できますね。浅野智子「ヒンドゥー語ラップ チベタン・ダンス」を彷彿とさせる、民族感覚と声優的語り、80年代的テクノサウンドが混在した怪作であり、まさに「声優版エスノ・ニューウェイヴ」の到達点。全体として『音楽小説』というタイトルに偽りなし。まさに、音と声のあいだで編まれる掌編小説集。

高木恭造『わが青春のまるめろ 高木恭造の世界』(1982)

高木恭造『わが青春のまるめろ 高木恭造の世界』(1982)

10代の終わり頃、70~80年代の日本の “アングラ” 音楽──浅川マキや非常階段、J.A.シーザー、〈P.S.F. Records〉の諸作など──に触れたことをきっかけに、地下音楽への関心が深まりました。その入口として出会った三上寛の作品は、怨歌の旗手であり、日本のアヴァンフォークの名手でもある彼の世界観に惹かれ、昔から愛聴してきました。そして、近年存在を知ったこちらのレコードは、三上寛のレーベル〈三上寛商店〉からリリースされている唯一の作品である点に強く興味を惹かれて購入したものです。高木氏は、青森・津軽弁の方言詩人であり、詩集や小説集、文集なども数多く出版。青森県で眼科医院も営んでいました。イギリスの詩人であるジェイムズ・カーカップ(James Kirkup)と中野道雄の手により方言詩集『まるめろ』が英訳され、海外でも紹介された人物でもあり、三上寛が多大な影響を受けている事もよく知られています。

本作では、高木氏は朗読とナレーションを披露。三上寛によるギター演奏に支えられた、1981年の朗読公演の様子が収録されたライブ盤。自身の半生に関する語りを中心として綴られていくのは、戦前の東北~日本の翳りと無常を内包したありのままの姿。作品を通じて、東北における村落特有の土着的情念や悲哀、現代人からは失われ/漂白されてしまっている、小作農的な農民の詩情や哀愁、そして、大正から昭和初期の日本を包んでいた、洗練され始めたモダンの気配とグロテスクなまでの土着がせめぎ合う、激動の時代における混沌とした空気までが息づいています。語り部としての高木氏は、津軽弁特有の抑揚ある語り口で、村落や都市における無名の人々の生活の細部や感情の機微を生々しく炙り出しつつ、どこか静かな祈りの余韻を残し、詩はまるで空間に溶けていくかのよう。激動の時代の影に光を当て、目を背けず語り継いでいく高木氏の朗読には、どこか暖かで確かな悟りの気配があります。遠くへ行ってしまった暖かなものも、苦虫を噛むような感情も、埋もれゆく影の中からすくい上げ、現代の喧騒やノイズの中で失われゆく日本人の原風景として静かに蘇らせ、真摯なまなざしのもとで記憶していこうとしています。津軽弁による方言詩の美しさや、失われつつある原風景の再現といった点でも、文学的価値が非常に高い隠れた名作。そっと添えるような三上寛のギター伴奏も美しく、声に寄り添うように静かに爪弾かれ、冬の風のように吹き抜け、寡黙な空白が詩を包んでいくような響きが情感をより引き立てています。朗読中心の作品でありながら、土着的かつ深遠な国産サイケフォーク/詩と音楽が交差する記録音源の一例としても注目に値する一枚です。三上寛や友川かずき、高松貴久、古川壬生といったアーティストに惹かれる方には、ぜひ耳を傾けてほしい、静かなる記録の傑作です。かすかな祈りのように、時代の風を今に届けてくれる作品として。

門脇綱生

京都のレコード店「Meditations」のスタッフ/バイヤー。編著『ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド』(DU BOOKS)。J-WAVE『SONAR MUSIC』やTBSラジオ『アフター6ジャンクション』にも出演。「ミュージック・マガジン」や「レコード・コレクターズ」、「TOKION」、「ele-king」を始めとした複数のメディアや雑誌にも寄稿するほか、国内盤ライナーノーツの執筆を手掛けるなど、音楽ライターとしても活動する。ディスクユニオンの〈DIW〉傘下にて、音楽レーベル〈Sad Disco〉を主宰し、主に再発盤を中心にリリースを展開。同時に、「遠泳音楽」(Angelic Post-Shoegaze)をテーマとしたレーベル〈Siren for Charlotte〉も共同運営。Spotify公式「New Age Music」プレイリストの監修歴がああり、個人アカウントでも「声優シティ・ポップ」や「ミクゲイザー」、「Japanese Techno Pop」、「Deconstructed Club」、「Japanese Underground Music」など、多種多様なテーマや独自の視点に基づいた人気プレイリストの数々を公開している。2024年のYCAM『Audio Base Camp #3』では「Post-Choir(ポスト・クワイア)」をテーマとしたDJプレイを披露し、COMPUMA氏やVIDEOTAPEMUSIC氏と共演。再現ミックスは、ブリストルの〈Noods Radio〉で放送が行われた。2025年には、老舗ダンス・レーベル〈Mule Musiq〉傘下〈Studio Mule〉にて、日本のアーティストの歌心に着目した「アンビエント歌謡」をセレクトした編集盤『Midnight in Tokyo Vol.4』の選曲を担当し、2枚組LPレコード作品として全世界で発売された。

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Edit:Takahiro Fujikawa

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