トーマ・バンガルテルとギ=マニュエル・ド・オメン=クリストの2人によって、1993年、フランス・パリで結成されたダフト・パンク。2021年2月22日、彼らは自身のYouTubeチャンネルで約8分間のビデオ「Epilogue」を発表し、解散を表明した。

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28年のキャリアを通してエレクトロニック・ミュージック・シーンを牽引し、音楽シーンに変革をもたらしてきた彼ら。発表したオリジナルアルバムは『Homework』(1997年)、『Discovery』(2001年)、『Human After All』(2005年)、『Random Access Memories』(2013年)の4枚。寡作と言っていい経歴だが、そのどれもがマスターピースとしての輝きを放っている。

ダフト・パンクは、どのようにしてレジェンドになっていったのか。数少ないライブも含めてその衝撃をリアルタイムで経験してきた筆者が、その歩みを改めて振り返り、彼らの音楽にどんなインパクトがあり、後続にどんな影響を与えてきたかを解説したい。

「17歳の僕たちはただロックバンドに憧れてた」

ダフト・パンクという名前は、トーマとギ=マニュエルの2人が以前に活動していた前身バンド、ダーリンが受けた酷評に由来している。

2015年に公開された映画『ダフト・パンク ドキュメンタリー UNCHAINED』に収録された過去のインタビューでは(以下、発言引用は全て同作より)、トーマは「音楽を始めた経緯は他の若者と変わらず、いたって普通だったよ。17歳の僕たちはただロックバンドに憧れてた」と語っている。後にフェニックスのメンバーとなる同郷のローラン・ブランコウィッツと結成した3ピースバンドで鳴らしていたのは、シンプルなガレージロックだった。

パリの一角でレイヴを体験、音楽性を転換

ダーリンはステレオラブのレーベル〈Duophonic〉から意気揚々とデビューしたが、1993年にリリースされた同レーベルのコンピ『Shimmies In Super 8』に収録された楽曲を英音楽誌『メロディ・メーカー』が「daft punky thrash」とこき下ろす。この後ダーリンは活動を停止、2人の目指す音楽性も大きく変貌し、ドラムマシンとシンセサイザーによる音楽制作に着手する。刺激になったのは、パリの一角でレイヴを体験したことだった。

ダフト・パンクは1994年にグラスゴーのレーベル〈Soma Records〉からシングル“The New Wave”でデビュー、1995年に“Da Funk”を発表する。スパイク・ジョーンズが監督した同曲のMVが脚光を浴びたことが、ブレイクのきっかけになった。

1996年には名門〈Virgin Records〉と契約を果たし、1997年には同曲を含むデビューアルバム『Homework』をリリース。当時はケミカル・ブラザーズやアンダーワールド、プロディジーなど、ロックとクラブ・ミュージックを融合した音楽性を追求するUK発の数々のユニットがスターダムを駆け上がっていた時代だ。

もともとロックバンドに憧れて育ち、レイヴ・カルチャーやハウス・ミュージックに影響を受けて音楽性を転換、アナログシンセを用いたサウンドで「フレンチ・ハウス」や「フィルター・ハウス」と呼ばれるシーンを開拓したダフト・パンクも、まさにその潮流の中で注目を集めたユニットだった。また、1998年にトーマ・バンガルテルが参加するユニット、スターダストが発表した“Music Sounds Better With You”も、フレンチ・ハウス不朽の名曲として知られる。

そして2000年、彼らは“One More Time”を発表し、大きな飛躍を果たす。2人がロボットの姿形になったのもここからだ。

この曲や同曲を収録した2001年のアルバム『Discovery』が他に比べても群を抜いていたのは、70年代のディスコ・ナンバーを発掘するサンプリングのセンスと、それを全く別物に生まれ変わらせるカットアップの巧みさだ。エディー・ジョーンズが1979年に発表した“More Spell on You”をサンプリングしたこの曲。ソウル・ナンバーの原曲を細かく再構築してイントロの印象的なフレーズを生み出している。

「最先端の発想で音楽やカルチャーの歴史を蘇らせる」一貫したスタイル

同時代を彩った数々のアーティストたちと比べても、ダフト・パンクほど70’sディスコ・ミュージックへの深い愛情と理解を持ち、最先端のテクノロジーをもってポップ・ミュージックの遺産を新しく蘇らせる発想を持ったアーティストは他にいない。その背景には、70年代にディスコミュージックのプロデューサーとして活動していたトーマの実父ダニエル・ヴァンギャルドの影響もあったはずだ。

とはいえ、当時のリスナーはそんなことは知るよしもなかった。ただただ、新しく、キャッチーで、どこか親しみのあるエレクトロ・ポップとして熱狂と共に受け入れられていった。『キャプテンハーロック』のファンだったことをきっかけにオファーした松本零士が手掛けた“One More Time”や“Harder, Better, Faster, Stronger”などアルバム収録曲のMV、そこから発展した映画『インターステラ5555』も大きなインパクトを持って広まった。

2005年、彼らは3枚目のアルバム『Human After All』を発表する。「アルバムのコンセプトは自分たちの原点に戻ることだった」とトーマが語る同作は、2週間で完成したという1枚。“Robot Rock”や“Human After All”など、ファズギターとトーキング・モジュレーターを効果的に用いたシンプルな曲展開とダイナミックなサウンドが大きな特徴だ。

最新技術のステージ演出と圧倒的なパフォーマンス

そして2006年には<コーチェラ・フェスティバル>に初出演し、当時の最新技術を駆使したステージ演出と共に度肝を抜くようなパフォーマンスを見せる。登場直前までトップシークレットだったというピラミッド型LEDステージを初披露したその年の<コーチェラ>は、長く語り継がれる伝説的な一夜となった。その衝撃はその後2010年代にアメリカでEDMフェスが大きく広がる下地にもなったはずだ。

同年には<サマーソニック>にも出演し、翌2007年には単独来日公演も実現。筆者もその場でライブを体験したが、演出もさることながら、1つ1つの楽曲が次々と折り重なるように繰り広げられるステージ構成に興奮した記憶が鮮明にある。この時のワールドツアーの模様は、2007年にリリースされたライブアルバム『Alive 2007』で追体験することができる。

数々の賞を受賞した『Random Access Memories』

2013年にダフト・パンクはアルバム『Random Access Memories』をリリースする。2010年に映画『トロン:レガシー』の劇中音楽をオーケストラと共に手掛け賞賛を浴びるも、自身の活動は途絶えていたダフト・パンクにとって、久々のリリースとなった作品だ。

前作の方向性とは一転し、ナイル・ロジャーズなど数々のゲストが参加しアナログ・レコーディングにこだわって制作された同作。ファレル・ウィリアムズが参加した収録曲“Get Lucky”は第56回グラミー賞で「年間最優秀レコード」「ベスト・ポップ・デュオ/グループ・パフォーマンス」を受賞、他にも数々の賞を受賞した。

ただ、制作の手法こそ一新されたが、実は彼らの軸にある発想は一貫している。それは70‘sディスコや当時のカルチャーへの憧憬だ。それを単なるリバイバルではなく、魅惑的なメロディと細部まで突き詰めた独創的なサウンドメイキングと共に「まだ誰も聴いたことがないもの」として蘇らせるスタイルを貫き通してきた。

同作に収録された“Giorgio by Moroder”は、70年代にいち早くシンセサイザーを用いた音楽制作に取り組みドナ・サマーの“I feel Love”など数々の名曲を生み出したプロデューサー、ジョルジオ・モロダーの半生を振り返るモノローグをフィーチャーした1曲。収録にあたっては、それぞれの時代の違いを出すために開発年代の違う3本のマイクが用意されたという。また、“Touch”には作曲家/俳優のポール・ウィリアムズが参加している。彼が出演していた映画『ファントム・オブ・パラダイス』(1974年)はダフト・パンクの2人が愛してやまない作品だ。

グラミー賞でのパフォーマンスやトップアーティストたちとの共演

こうした「最先端の発想で音楽やカルチャーの歴史を蘇らせる」彼らの姿勢を最も象徴する場面になったのが、第56回グラミー賞でのパフォーマンス。ホワイト一色の衣装に身を包み、ファレル・ウィリアムス、ナイル・ロジャース、スティーヴィー・ワンダーと“Get Lucky”で共演した場面だった。

その後、ダフト・パンクは2016年にザ・ウィークエンドと“Starboy”、“I Feel It Coming”の2曲を共作。2017年には第59回グラミー賞授賞式にザ・ウィークエンドと共に登場し同曲のパフォーマンスを披露している。

他にもカニエ・ウェストのアルバム『Yeezus』(2013年)での共作や、ファレル・ウィリアムズの楽曲“Gust of Wind”(2014年)へのフィーチャリング参加、オーストラリア出身の5人組バンド、パーセルズのデビューアルバム『Parcels』(2018年)に収録された“Overnight”のプロデュースなども手掛けていたが、彼らのオリジナル作品としては『Random Access Memories』が最後となった。

彼らの影響は様々なシーンに

ダフト・パンクがいなかったから、エレクトロニック・ミュージックの歴史は変わっていたはずだ。ジャスティスが代表するフレンチ・エレクトロのシーンは彼らの歩んだ足跡の後に生まれたものだし、LCDサウンドシステムも彼らの影響下にある。スクリレックスも「ダフト・パンクのライブを目撃したことで人生が変わった」と公言している。

また、ダフト・パンクはサンプリング・ミュージックとしての卓越したセンス、そしてカニエ・ウェストやファレル・ウィリアムズといったコラボレーターを通して、ヒップホップ・カルチャーにも影響を与えている。

『Random Access Memories』がその後の音楽シーンに与えた影響も大きい。同作が起爆剤となったディスコ・リバイバルのムーブメントは、その後にマーク・ロンソン&ブルーノ・マーズの“Uptown Funk”からBTSの“Dynamite”まで、数々の大ヒット曲に受け継がれている。

ジャンルを超えてファンやクリエイターに愛されてきたダフト・パンク。彼らが残した功績は、この先も色褪せることはないだろう。

Words: 柴 那典