音楽の世界に欠かせない存在でありながら、その仕事内容はあまり知られていない。ピアノ調律師とは、どんな仕事なのだろうか?
ピアノ調律師の按田泰司さんは高校を卒業して調律師の養成所に入り、その後はずっと調律の仕事を続けてきた。現在は世界的に有名なピアノ製造会社であるスタインウェイ&サンズ社(以下、スタインウェイ)のコンサート調律なども行い、2020年頃からはピアニスト・角野隼斗が使用するピアノの調律にも携わっている。
調律師の仕事について、そしてその仕事における哲学について、音楽家・録音エンジニア・オーディオ評論家の生形三郎さんが話を聞いた。
弾き心地や音色までを含めて、ピアノを整える
生形:まずはピアノの調律について、基本的にどんなことをされているのか教えてください。
按田:調律師というと、一番に思い浮かぶのは調律、つまり弦の張り具合を調整して音程を整える作業だと思います。もちろんそれは重要な仕事ですが、実はそれだけではありません。ピアノを「良い状態で音が出る楽器」に仕上げるために、大きく言って次の3つの作業があります。
1. 調律
弦の張力を整えて、音程と音のバランスを合わせる作業
2. 調整(整調)
鍵盤やアクションと呼ばれる打鍵装置などを整備し、弾き心地や、反応速度を調整したりする作業
3. 整音
ハンマーの硬さや弾力を調整して、音色や音質を整えたり、ヤスリ・針刺し・薬品などを使って、音のキャラクターを作る作業
これらに加えて、必要に応じて、現場での小さな修理も行います。
生形:つまり、「調律=音程だけを合わせること」と思われがちですが、実は弾き心地や音色まで含めてピアノを総合的に整えることが調律師の役割なんですね。
按田:そうなんです。構造の違いはありますが、アップライトでもグランドでも基本的にやることは同じです。ピアノは多くの部品が木や柔らかいフェルトなどでできているので、部品そのものの状態が湿度や温度によって変化します。それに伴って、鍵盤の深さや部品の位置、ハンマーの距離などが少しずつずれていくので、定期的に、あるいはその都度で調整が必要です。
生形:ピアノは湿度管理が大事だと言われるのは、そうした部品に影響があるからなんですね。
按田:はい。保管や運用には、除湿機・加湿器を併用するのが理想です。湿度の設定が細かくできる機種が良いですね。加湿器は家庭用では今のところ気化式ハイブリッドが向いています。ただし、設定値は数字だけで判断するのではなく、実際にピアノの状態を見ながら調整しなければいけません。
生形:では次に、調律の方法について。どのような手順で進められるのでしょうか?
按田:基本的にはまず基準となる音として、ラの音を決めます。そこから倍音*の関係を使って、2つの音を同時に鳴らした時に生じる音のうなり**を聴きながら音程を決めていきます。
たとえば、オクターブ(例:ドと上のド)は基音と二倍音の高さが一致するので、うなりをなくすように合わせる。一方で、五度(例:ドとソ)・三度(例:ドとミ)などは異なる倍音の高さが一致するものの、平均律***では波形が完全には一致しないため、特有のうなりの速さになるよう合わせる、というように、数学的な比率を使って耳で判断していく作業です。
*倍音: 楽器が1つの音を鳴らしたときに一緒に生まれる高い音の成分。基準となる音(基音)の 2倍・3倍・4倍…(第●倍音)といった整数倍の周波数をもつ音が規則的に出ており、それぞれの強さが楽器ごとの音色の違いをつくっている。
**うなり: わずかに異なる波形の高さ(周波数)の2つの音が重なったときに起こる、周期的な揺れ(ビブラートのような波)のこと。
***平均律: すべてのキーで同じように演奏できるように、オクターブを12個の均等な間隔に分けた調律法。
生形:うなりの回数を耳で判断して合わせるというのは、慣れれば誰でも同じようにできるものですか?
按田:若いうちに始めればだいたい誰でもできるようになりますが、実際には調律師ごとに仕上がりのニュアンスが違ってきます。
例えば、ピアノの中音・高音部は一つのキーにつき弦が3本ずつ張られているので、これらを合わせる「ユニゾン調律」でどのように同じ音として揃えるかで個性が出るんです。物理的な周波数として完全に一致させるのが良いとは限らないので、わずかな揺らぎを残したり、音のキャラクターに合わせて調整したりすることもあります。
このユニゾン調律は、倍音の出方にも少なからず関係します。以前、ドイツのスタインウェイ ハンブルク工場で研修を受けたのですが、その頃にベルリンでブラームスのピアノ協奏曲を聴く機会がありました。それが大変素晴らしくて、その理由の一つは調律にあるのではないかと思ったんです。
当時、私はユニゾン調律で第7倍音がしっかり聞き取れるように仕上げることを心がけていました。ある音がドミナント音*として機能しうることが大事ではないか、と考えたからです。ところが後日、また別の機会に同じ調律師による仕事を見たのですが、そのピアノは自分のイメージに比べて、第7倍音が少し控えめで、代わりに第9倍音がよく響いていたんですね。それを聴いて「こういうバランスが良いのかもしれない」と仮説を立てたわけです。
*ドミナント音:音階の中で、主役の音(=主音/トニック)に強く戻ろうとする性質をもつ音のこと。
生形:倍音の違いで、音楽の感じ方が変わるということですか?
按田:はい。ベース音の中に含まれる第7倍音は和声上「ドミナント」の方向性を強く感じさせます。ただ、第7倍音が強すぎると、コードが解決しても心理的に緊張感が残ってしまうのでは、と思えました。そもそもドミナントとして用いられる場面はごく一部ですから、その音がほかの役割のときにどうかという問題があります。
一方で第9倍音は、和声的な方向性を強く押し付けません。だから「第9倍音も第7倍音と同じように響く」というバランスが自然で気持ちよく音楽が流れる鍵なんじゃないか、と考えるようになりました。どのような役割にも機能する、万能な音であると。まぁ、その頃から15年経った今はまた少しだけ違う考えを持っていますが。
生形:それを調律でコントロールするのはとても難しそうですね。
按田:私も手に取るように聴き分けられてはおらず、難しいです。調律学校で倍音について教わるのは主に「音律を作るため」ですが、実際には1つの鍵盤につき3本張られた弦をどう響き合わせるかで、倍音バランスとその出方のニュアンスが多少変わります。さらにいうと、複数の弦を干渉させることのない「たった一本の弦」をどのようにもっていって合わせるか、ということでも、倍音をはじめいくつかの音の要素が変わるのです。
生形:非常に奥が深いですね。先ほどの3つの作業のうちの3番目に当たる「整音」も調律師さんによって仕上がりが大きく変わる印象がありますが、どんなプロセスで音色を整えていくのでしょうか?
按田:ピアノの音はハンマーが弦を叩くことで生まれます。このハンマーのフェルトの硬さによって音色は大きく変化するので、これを調整します。具体的には、ヤスリでハンマーを整形する、フェルトの表面を整える、針を刺して弾力を調整する、などの方法を組み合わせます。
今お見せしている作業は、専用の道具を使ってハンマーフェルトに細かく針を刺しています。一口にハンマーの硬さといっても、フェルトのどの部分にどのような弾力を持たせるか、その硬さの分布とバランスを見極めないといけません。もちろん刺しすぎると音が悪くなってしまうので、その「ちょうど良いところ」を目指して調整します。
生形:硬すぎる状態と、柔らかすぎる状態では、具体的に音はどう変わるんですか?
按田:わかりやすく言うと、ボールが一番よく弾む空気圧があるように、ハンマーにも「ちょうどいい硬さ」があります。硬すぎると弦を十分に振動させる前にハンマーが離れてしまって必要なエネルギーを与えられませんし、音色も尖ってしまいます。逆に柔らかすぎると、高次倍音が少なく音がこもったり、弦からの戻りの反応も鈍くなりがちです。「整音」はハンマーの弾力を作り上げてベストなバランスを探り、最終的にはそこから出せる音でさまざまな表現を引き出していくことを目指す作業です。
生形:調律師によってピアノの印象が変わると言われる理由がよく分かってきました。以前、私が録音エンジニアを担当したいくつかのレコーディングで、現場の調律師さんに調律していただいた際、仕上げてもらったあと実際に録音を始めてみると「なにか違うぞ」という感覚が出てきて、急いでもう一度調整をお願いしたことがありました。
その時、演奏者やディレクター、僕自身を含めて皆が共通して感じたのが「音がキュッとしすぎている」、「すっきりはしているけど、硬くて伸びがない」みたいな印象で、まさに先ほどおっしゃっていた “伸びない音” という状態だったと思います。こういったニュアンスはどのように調整されているのでしょうか?
按田:実は、それは多くの技術者がぶつかる壁でもあります。音がしっかりしていて調律が狂いにくい状態にすることと、柔軟な響きや自然な広がりを持たせること。この両立は簡単ではありません。つまり、合わせるだけでは不十分で、よく仕上げるという段階がとても難しいのです。
生形:なるほど。きちんとしているけれど、硬すぎず、ゆとりもある状態ですね。
按田:はい、例えば髪型で言えば、床屋さんに行った直後の “きちんとしすぎた状態” だと、少し違和感が出ることがありますよね。でも本当に腕の良い理容師さんなら、切りたてでも自然に馴染んで見えます。それに近い感覚かもしれません。
少し理論的に言うと、「調律」という作業は音律を割り振って整理した状態にする、つまりエントロピー(無秩序さ)を小さくする作業だと考えることができます。しかし同時に、弦やチューニングピンなどの部品には “自然に落ち着くポジション” があります。そこに無理なく収まっていないと、仕上がりが硬く感じられたり、伸びが失われたりします。それぞれの部品が偏りなく、まんべんなく力が行きわたって自然に馴染んだ状態に落ち着くと、音は硬くならず、こなれた、自然な響きになります。こちらは反対にエントロピーが大きい状態と言えないでしょうか。
この微妙なバランスを調整することが、調律師にとって、少なくとも私にとっては最も難しく、そして大切な仕事なんです。
“音が鳴る前”を聴きながら調律をする
生形:以前に按田さんから伺ったお話で、調律には「音の時間の捉え方が重要である」という考え方が印象的でした。こちらも按田さんならではのアプローチかと思うのですが、ご解説いただけますか。
按田:音の時間の捉え方については、フッサール現象学の「過去把持(retention)」という観念が大きなヒントになりました。文法上の現在完了形(完了用法)と近い考え方で、〈音の現れから今に至る、長い「今」が存在する〉という私なりの概念です。
ユニゾン調律を合わせる際の音の聴き方ですが、「今鳴っている音」だけを聴くのではなく、その音が “鳴る前” の状態から耳を向けています。音が鳴った時点ではすでに「時間が流れている」ので、そこから耳を合わせると、どうしても認識が遅れるんです。なので、音が鳴る前から「これからどんな音が来るか」を具体的にイメージしておき、音が出た瞬間に最も集中して耳を合わせるようにしています。
生形:音が出た瞬間での判断が一番大事、ということですね。
按田:音楽の聴き手とは異なり、音を創らねばならない私たちは音の始まりから現在までを含んだ時間の輪郭を感じ取る必要があります。その一貫した感覚があると、音が重なって聴き分けにくい「音と音の隙間」からでも、一つの音の全体像を想像できるようになるんです。持続してからの伸びはもちろん大事なのでよく聴かなければいけませんが、その情報も、音が出る一瞬に含まれています。これは、調律で私が大切にしているポイントでもあります。
生形:これはやはり、ピアノという楽器ならではの話ですか?
按田:そう思います。多くの楽器は、演奏者が音の始まりから終わりまでをコントロールできますよね。でもピアノは音を出した瞬間に行方が決まってしまう。だからこそ、立ち上がりが極めて重要なんです。その瞬間にどんな音が生まれるかで、音の行方はほとんど決まります。
生形:だからピアノの調律はそこが “肝” なんですね。
按田:音が出たあとに演奏者が鍵盤を動かしている様子を見ることはありますが、そうした時と、しない時で、鍵盤が底に着くまでの体の動きが異なっているように思います。音の伸びの部分をはじめからイメージしているのではないでしょうか。
また、音が出たあとに取る体の動きは、次の音が生まれる直前の指の状態に影響します。それはつまり、演奏者は「今の音のためではなく、次の音をどう出すかの準備として体を動かしている」のだと思います。でもその全てに注意を向けていると、今出し終わった音がそれからどうなっていくか確かめられない。もしそこに、ひと繋がりの強い一貫性があれば認識は容易になり、結果、より長く音を聴きやすくなります。
生形:すごく本質的なお話ですね。音の立ち上がりが最も重要だという部分は、音を電気信号に変換して捉えるオーディオエンジニア、そして、レコーディングエンジニアの録音や編集アプローチにもつながってくるものと感じまして、とても面白いと思いました。
アナログな仕事、調律師としてのキャリアパス
生形:調律師になるには、調律師として生計を立てていくには、といった実務的な部分をお伺いしてもよろしいでしょうか。
按田:今は多くの人が調律師養成学校に入って調律師になります。ただ、学校に行かずに、工房や個人の調律師のもとで弟子入りして技術を身につける人も稀にいます。調律の仕事には近年国家資格ができましたが、資格がなくても調律の仕事はできます。
生形:ただ、実際には「どこで勉強したか」という空気感や人の繋がりが影響するといった話も聞きます。
按田:空気感は、言われてみればあるかもしれません。しかし、実力や人柄が認められればそういう壁はなくなります。
生形:キャリアの流れとしてはどのような道筋を辿ることが多いですか?
按田:ほとんどは調律学校を卒業して、楽器店や工房に就職します。現場を経験した後は、社員として続ける、嘱託(委託技術者)として関わる、フリー(自営業)に転向する、など、働き方は人それぞれですね。
生形:人によって収入の幅は大きいですか?
按田:儲かりそう、という理由で調律師になるのはお勧めしません。中小企業の平均的な年収を得ることは可能だと思いますし、大きなメーカーに入ればもう少しいいでしょう。海外駐在やフリーになって仕事が多ければ、人並み以上は十分に目指せます。
今後を考えた時に、ピアノのある場所に自分が行って耳と技術で調整するので、AIに置き換わりにくい仕事でもあると思います。初期投資も少なくて済むので、独立もしやすい。工房を持つとなったら準備は簡単でないですが、その気になれば実現は困難ではないと思います。
生形:そういう意味では、すごくアナログな仕事ですね。その点でいうと、演奏家の価値、すなわち「人が演奏する」こと自体の意味が注目を集める今の時代の流れにも通じます。調律はまさに五感をフル稼働させて、「腕と感覚で勝負する仕事」だなと感じます。
按田:本当にそうです。ある意味、調律師は”人が音や音楽をどのように認識しているか”を探り続ける側面もあります。
調律におけるより良い仕事とは何かを自分なりに突き詰めていくので、研究者肌の人、探求し続けるタイプの人には、向いている仕事だと思います。また、人付き合いが好き、という人にもやり甲斐を感じられると思います。
生形:では最後に、按田さんが仕事で大切にされていることがあれば教えてください。
按田:仕事には責任が伴うので、どうしても真剣に向き合うことになりますよね。その過程で得られる経験は、最終的に自分自身を成長させてくれるものだと感じています。調律に限らず、どんなことにも共通する「心の在り方」のようなものがあって、仕事に向き合うことで、自分の見える世界が少しずつ広がっていく。そういう感覚があります。
自分がその仕事を「好きだ」と思えたり、その仕事の「本当の目的」を自分で肯定できるなら、その仕事に向き合っている間は、ちゃんと自分の時間として意味を持つんですよね。そういう仕事に就けるのは、とても幸せなことだと思います。
これは私が高校生の頃にこの仕事を目指すきっかけにもなりましたが、”ずっと飽きずに向き合い続けられそうか”。これは職業を選ぶときに、大切にしていい視点だと思います。
生形:全くおっしゃる通りだと私も思います。
按田:余談ですが、実家の本棚に『ニーチェの言葉』という古い本があったんです。なんとなく手に取って読んでいたら、自分の考え方に影響を与える言葉がたくさんあって、人生観が変わりました。もしあの本がなかったら、こういう少し特殊な仕事を選ぼうとは思わなかったかもしれません。
生形:先ほどの音の捉え方に対しての部分でも哲学者フッサールの概念が出てきましたが、哲学に惹かれる部分がもともとおありだったんですね?
按田:そうですね。若い頃に「この人はすごい」と思っていた調律師の大先輩がいて、その人が哲学書を読んでいたと聞いたことからも影響されました。
ピアノとは何か、個性と良さの違い、主観と客観、相反するものの調和、構造主義の思考、異文化音楽へのアプローチの仕方……調律の仕事に通じる部分がすごくあります。もちろん、これはあくまで私の実感であって、誰にでも同じとは思いませんけれど、哲学は本質に近づくためのヒントが多いんです。
生形:按田さんならではのお仕事のアプローチがとても興味深かったです。お忙しい中、長時間にわたり貴重なお話をありがとうございました。
Words:Saburo Ubukata
Photos:Kosuke Matsuki
Edit:May Mochizuki