まだダウンロードなんて言葉も知らなかった頃、私はクリスマスに買ってもらった子供用の音楽プレーヤーを片手に、テレビの前に居座っていた。今夜の音楽番組で、オレンジレンジがチャンピオーネを歌うらしい。食卓には、今日もおばあちゃんが作ってくれた大味の料理が並び始めている。全員分の味噌汁を置いて家族がリビングに集まったのと同時に、タモリとの当たり障りない会話を終えたオレンジレンジが、演奏の準備をし始めた。
「曲が終わるまで、喋らないでね!」
私は家族に何度もそう言って、プレーヤーの録音ボタンを押す。これを完璧に録音できれば、いつでもどこでも、歩きながらでも、私は完璧なチャンピオーネが聴ける。チャンスは一回。私は自分の呼吸音にすら気を遣って、彼らの演奏を静かに見守った。しかし、程なくして、そんなことには構いもしない様子の母が、素っ頓狂な声をあげた。
「なにこの曲!変なの!」
曲はまだサビにも到達していない。母の声が録音に入ってしまったことに絶望しながら、私は「ねぇ!静かにして!」と必死に抗議した。しかし、母は謝るどころか「だって変なんだもん、何この人たち」と言いながら、喋るのをやめようとしない。そのうち祖父が入ってきて「なんだ、最近はこんな曲が流行ってるのか」と好き勝手に喋り出し、しまいには祖母が、曲に合わせて変な合いの手を入れ始めてしまった。もう、録音なんてできる状況じゃない。私も流石に呆れてしまって「もー、録音したかったのにぃ」と半分笑いながら会話に加わった。当然、録音はまともに曲が聴き取れるような代物ではなく、その代わりに家族の賑やかな笑い声や、食器がカタカタとなる音、飼っていた猫が餌を求めて鳴く声が絶え間なく入った記録になっていた。
あのプレーヤー、捨てずに大切に取っておくべきだったな。なんて、大人になった私は今更思う。能動的に得る、音楽としての音。そして、否応なく流れ込んでくる。人の生活による雑多な音。あの頃の私は、完璧に作られた音楽を欲していたはずなのに、いつも記憶の中に漂っているのは、誰かの声と足音ばかりである。
渋谷や世田谷なんかではもうほとんど見かけない、岡持を積んだバイクが目の前を通り過ぎる。亀有に来たのは、初めてかもしれない。高架下の長いガラス張りの窓の向こうに、たくさんのレコードが並んでいる。レコードと、レコードプレーヤー、それを聴くためのヘッドホン。どれもその作りによって、少しずつ音が違うらしい。私に聴き分けられるだろうかと、説明を聞きながら少し不安になった。
恐る恐る、レコードが詰まった棚に指をかけてジャケットを眺め始める。ロックもあれば民謡もあるらしい。ジャンルは見る限り置き場所がバラバラで、自分の好みに頼って探すべき場所は見当たらない。私はただ「Love」と書かれたその棚にあるレコードたちを、目的地の定まらない指先で捲り続けた。この棚にあるものは愛を宿していて、すぐ隣の棚には宇宙が眠っているらしい。
愛の中で、最も愛らしくないように見える、真っ黄色のジャケットに包まれた1枚を手に取ってみる。プレーヤーまで持っていって、取り出したレコードに慎重に針を落とすと、小さなライターに火が灯るような音に続いて眩しいほど陽気な音楽が流れ始めた。私が想像する愛より、それは夏の砂浜のように乾いていて、私はしばらく身じろぎもせず注意深くそれを聴き取った。
これが愛なのか、いや、これも愛なのか。
私が持っているものとは違う愛が、誰かにとっては確かに愛なのか。そう理解すると、体はそれに身を委ねるように揺れ始める。音楽にたったひとりで浸っていくのは、深く考えるのと同じように、人間だけがする行為である。こうして両耳を覆って何かを聴いていると、世界が閉じて、ひとりになる。視覚の中で人々が変わらず私の前を行き来しているというのに、私はたったひとりになる。自分の輪郭が、いつもよりはっきりとした線になっていくのを感じる。そういう、自然ではない状況を自ら作ることで、人は誰でもない自分を感じることができるのかもしれない。針の形状、ヘッドホンの素材。理性の上で成り立っているひとつひとつの手仕事の結晶の上で、私はこの曲を聴いている。音楽に没入するというのは、動物的に見えて、とても人間的なのかもしれない。
広く敷かれた畳の空間に、靴を脱いで入ってみる。今度は四方のスピーカーから、空間に満遍なく広がるように音楽が流れていた。スピーカーから流れているのに、どこから音が聴こえてくるのかわからない不思議な感覚だ。ふと天井からJRの車両が通過していく音が聞こえて、ここが音楽を楽しむにはそぐわない高架下だったことを思い出す。あるのはレコードプレーヤーとスピーカー、そして盆栽。この目的のない空間で、街の人たちは寝転んだり、ケーキを食べたりしていて、まるで地域の公民館のような雰囲気である。ここは誰でも入ることができて、寝るも躍るも自由な場所らしい。
「こう使ってください」という説明がないことに、私は最初、なんとなく心細さを覚えたように思う。私は最近「してはいけないこと」ばかりを考えて過ごしている。きっと、大多数の人にとって迷惑なこと、ルールで禁止されていることさえわかっていれば、ひどく批判されたり、軽蔑されることがないからだ。
自由。自由とはどうするのが正しいのだろう。
その場に横たわって、静かに天井を見つめてみる。コンクリートの天井だけの視界、その外で色々な音が飛び交っている。奄美大島の民謡、くだらない話、畳を擦る皮膚の音。またその上を、たくさんの人を積んだ電車が通り過ぎていく。
みんなが迷惑で、同時に誰も迷惑じゃない。もしかしたら、これが世界なのかもしれない。
誰かと生きるということなのかもしれない。
立ち上がって、音楽に合わせて手足を動かしてみる。一緒に踊り始めた人の隙間を泳ぐように、私は畳の上をくるくると泳いだ。音によって、ひとりになり、音によって誰かと繋がる。
「聴く」という言葉だけで表すには、あまりに途方もなく、あらゆるところにある。だからいっそ、私は「生きる」と言い換える。
あのとき再生したオレンジレンジ。弾けるような愛の合間に、あの日の私たちは生きていた。
伊藤亜和
1996年、神奈川県横浜市生まれ。文筆家。学習院大学文学部卒業。note掲載のエッセイ「パパと私」がSNSで話題となり、執筆活動を本格化。同作を収録した『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)でデビュー。他の著書に『アワヨンベは大丈夫』(晶文社)、『わたしの言ってること、わかりますか。』(光文社)、絵本『モプーはヘンダ』(KADOKAWA、絵:出口かずみ)など。創作大賞2023メディアワークス文庫賞、第19回「わたくし、つまりNobody賞」を受賞。ラジオやテレビ出演など幅広く活動中。最新刊は「現代の魔女」をドラマティックに描いたエッセイ集『魔女になりたい』(文藝春秋)。
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Photos:石本一人旅
