自ら「波形中毒者」を名乗る電子音楽家・JEMAPUR(ジェマパー)は、デジタルなサウンド・プロセシングを駆使したビートメイク/プロデュースで高い評価を得てきた。 しかし、2020年頃に長野に拠点を移して以降はコンピューターによる制作をやめ、現在はモジュラーシンセサイザーを使った音の探求に没頭しているという。

情報過多でストレスフルな東京から抜け出し、自然に囲まれた長野へ。 さまざまなソフトウェアやプログラミング環境を駆使したデジタルな表現から、アナログな電気信号を制御するモジュラーシンセによる実験へ。 このふたつの変化は、生活と制作をまたいで少なからずシンクロしているように思える。 JEMAPURの長野の自宅兼制作拠点を訪問し、ここ数年で迎えたこうした変化の背景と、現在地から見渡す展望について話を聞いてきた。

世界と触れ合い、「音」に向き合うことで得られた癒やしについて語りつつも、デジタルテクノロジーが不可避的に抱える限界や、そうした限界に囚われた「音楽」への率直で鋭い疑問をつきつける。 東京という中心からあえて距離をおいたからこそ育まれた、思考の一端に触れてほしい。

※本記事では、アーティストの意向に沿い「気」を「氣」と表記しています。

東京から長野へ

普通の古民家を改装して使われているんですね。

そうですね。 もともと祖父母の家で、パンデミックの直前まで祖母が住んでいたんですけど、施設に入ることになって、空き家になってしまったんです。 新型コロナウイルスの影響によって都内で動きにくくなったタイミングで移ってきました。

父親の仕事の関係で幼少期から引っ越し経験が多く、いろいろな場所に住んでいましたが、長野に住むのは今回が初めてですね。 周辺に知り合いもほとんどいないので、新鮮に感じられる環境です。

東京から長野に移られる際には、そもそも「東京と距離を置きたい」というモチベーションもあったのでしょうか。

もともと僕は静岡に住んでいて、そこから都内に移って8年ぐらい住みました。 長野へ引っ越すきっかけになったのが、2019年にオランダのアムステルダムにアーティスト・イン・レジデンスというかたちで滞在制作のお誘いを受けたことでした。

ちょうど年号が令和になった5月1日にアムステルダムに行って、De Schoolというクラブを拠点に制作活動を行いました。 その滞在制作中の環境がとても刺激的でクレイジーな体験だったこともあり、2ヶ月滞在して帰ってきたとき、その環境の違いに「耐えられない」と思ったんです。 あまりにも自分にとって不必要なノイズが多過ぎる、と感じました。
それと、帰ってきた直後に法事で長野に来る機会があったんですが、そのとき、自然に溢れる環境に触れて「これはすぐにこっちに来たほうがいいな」と直感的に思ったというか。 それまで長野を訪れる機会はほとんどなかったのに、山の風景だったり空氣だったり、そういったものを改めて興味深く感じられる体験がありました。 まさに密集した住環境からエスケープしたい氣持ちを強く抱えていたタイミングでの体験でした。

拠点を移して、制作や生活のスタイルが大きく変化したと思います。 具体的にはどんな変化がありましたか。

まず大きな違いは、コンクリートに囲まれていた環境から、木造住宅に変わったこと。 日常の生活のなかで、自然音が常に聞こえている状態がデフォルトになりました。 都市部では、自然界にある波を日常的に感じることができないで生活をしていた。 要は自然とつながりが切れている状態です。 長野に来て、自然音に衝撃を受けました。 自然界は常にこんなにも無数に音が溢れ続けているんだなって。 鳥の声や虫の声、風、木々がしなる音など、地球にあふれている音のエネルギーそのものを生活を通して体感できる環境は、とても安心感がありました。
都内にいたときは、音を出すことで近隣住民に迷惑をかけてしまうことに関しては、神経を相当すり減らしていたように思います。 自分がやりたいことに常にアクセスできない状態ですね。 この家にも近隣の方はいますし、人が少なければその分人間の生活音が少ないので、そこで人間が音を出すと余計に氣になってしまうという環境ではあります。 十分な音量を出して制作できるかというと、そういうわけではまったくないんですが、自然な反響と外の音が聞こえるなかであればほとんどストレスは感じません。 自分に合っているのだと思います。

拠点を移したことについて語るJemapur

JEMAPURとしてだけではなく、いち生活者としてぴんと来るところもあったんでしょうか。

僕はアスペルガー症候群とADHDとLD(学習障害)の三つの診断を受けていて、そもそもストレスに対する耐性が弱いというか、感覚的に過敏過ぎる領域があります。 それにも関わらず、都市部で生活を続けていくなかで、過剰なノイズに対して、自らを遮断・麻痺させるような形で、精神を疲弊してしまっている状態にまで至ってしまいました。 そういった状態で体験したオランダでの滞在が、活動の拠点を移すためのトリガーとして機能しました。

デジタルの限界から、モジュラーシンセサイザーへ

長野に拠点を移すのと同じくらいのタイミングで、コンピューター主体の制作環境からモジュラーシンセへ移行されています。 この移行のきっかけはなんだったのでしょうか。

デジタルで制作していた頃は、最終的なレンダリング時のサンプリングレートを32bit / 768kHzに設定していました。 一般的に言われるハイレゾは192kHzくらいなので、その4倍の情報量があります。 プロセス時については、処理できるサンプリングレートは384kHzなのですが、当時のM1のMacでは、CPUがまったくついてくることができないわけです。 特に空間のシミュレーションを用いた計算などではその自由度の低さが顕著でした。 そこで、デジタルはまだ使えるレベルじゃないと氣づいた。 時間領域方向の情報量が圧倒的に足りていないと感じました。 自然界の波はちゃんとなめらかな曲線を描きますけど、デジタルはどこまでいっても量子化の影響を受けて階段状な波を計算することしかできない。 この量子化の精度は、現状のテクノロジーではまだ十分じゃない。 その現実にぶち当たって、頭を抱えました。

あくまで自分の主観ですが、みんなが当たり前に使っているフォーマットが実は欠陥だらけだということに氣づいて、これはまずいと思ったんです。 いままでコンピューターで制作してきたものは、全部不完全なフォーマットを用いて記録していたのではないか、、と。 そこから、リニアな波というものをいかにして記録するかという方向にフォーカスするようになりました。

そもそも、いまの感覚から言えば、デジタルの編集スタイル自体が、ひたすら虚構の世界を作り出しているというか、刹那的ないまが凝縮されているというよりは異なる時系列を同列に扱う方向性に無意識的に引っ張られてしまう。 編集してつくっていくという行為そのものに疑問を持っているんです。 そこをやっている限り到達できない領域があることを見つけたからには、これからはもうこれしかできない。 デジタルならでは表現もあるにはあるけれど、いまはあまり魅力を感じなくなりました。 もちろん、完全にデジタルを使わない、という意味ではないのですが。

コンピューターからモジュラーシンセに制作の道具を変えた

コンピューターからモジュラーシンセに制作の道具を変えたことで、これまでの制作の手法と新しい道具とのあいだのすり合わせというか、移行のプロセスがあったのではないでしょうか。

一般的にはそうしたことが発生するのかもしれないけれど、僕はデジタルの制作においても、モジュラーシンセ的な使い方をしていたんです。 DAWをDAWとして使っていなかった。 もともと音楽というよりもリズムとして変化し続ける波の集合体みたいなものを目指していたので、デジタルでやるとめちゃくちゃ時間がかかるけど、モジュラーシンセだと逆に何ヶ月もかけないと再現できなかったような音の塊に一瞬で出会えてしまったりします。

モジュラーシンセを使って制作することは、例えばDAWを立ち上げて制作するぞ!ということとはまた違うマインドセットというか、音に対する向き合い方があるように思います。 ご自身では、どんな心持ちで日々モジュラーシンセに向き合っていますか?

あまりなにかをしようという目的意識を持つことは僕の場合ほとんどなくて。 頑張って曲をつくろう、みたいなこともしないんですよ。 自分のなかで衝動が発生したときに、直感的に「今だな」って感じたときに触る。 むしろ、触りたくなるまで触らないとか、そういう感じです。 あと、明確に曲をつくったり音をいじったりしたくなるのは、自然のなかに入って、そこから受け取ったエネルギーが溜まったときです。 山に行ったりして、いろんな自然からのエネルギーを得た状態でモジュラーシンセに向かいます。 自分を人間ではなく、反射する細胞の塊みたいに捉える。 エゴを極力減らしていく、みたいなことは心がけているかもしれません。 あくまで観察したり感じたりすることを軸にして、頭でっかちに考えてないってことですかね。 衝動が出てきちゃって、勝手になにかが発生している。

山に行ったりして、いろんな自然からのエネルギーを得た状態でモジュラーシンセに向かいます

「イニシエーション」としての録音

まだ公にはリリースしていませんが、モジュラーシンセをつかった録音物をつくり溜めていらっしゃいますよね。 制作のサイクルのなかで、どんなタイミングで録音を行っているんでしょうか。

そうですね……。 サイクルのようなものはないのですが、たとえば、ほとんどの場合、最初の数時間で初期衝動的なアイディア、というか骨格のような現象が現れます。 その後、精緻にパラメーターを詰めていきます。 主に電圧の制御幅、変調と変調の組み合わせの入子構造を用いた構造を観察し、挙動の調整に時間を費やします。 そして、そこからそのパッチ上のアルゴリズムを身体的に把握して、制御していきます。 デジタルの場合は、あらかじめプログラムされたプロジェクトとスペースボタンを押すことによってそれらは機能すると思いますが、アナログでそれを再現する場合にはすべてを完全に、身体的に制御しきらなければならない。 指の動かし方を少しでも間違ったらアウトなんです。 あくまで自分の作り方のなかでの話ですが。
モジュラーシンセの演奏はそれくらい集中力を必要とするものなので、自分にとっての録音という行為は、ある種のイニシエーションのような領域にあります。 録音の前は、自分に入れる食べ物から、情報から、会う人から、すべてをコントロールする。 そうじゃないと自分の意識のなかにノイズが発生して、重要なレコーディングも一瞬でダメになってしまう。 いかにして精神と身体を制御するかが重要なんです。 この行為が音楽と呼べるものなのかなんなのか、僕にもわかりません。 音楽の先のなにかかもしれないし、これこそが原初の音楽的行為なんじゃないか? とも僕は思うんです。

奇しくもイニシエーションとおっしゃっていましたが、日常生活と制作のあいだにははっきりとした境界線はあるんでしょうか。 ばちんと入れ替わるのか、それともシームレスにゾーンに入っていくのか。

そうですね、いくつかのタームがあるというか。 何も結線されていないシンセサイザーにはじめて向かうときにはある程度の勢いがないといけない。 けれど、ある程度パッチングができて微調整していくときには、生活の一環になっています。 聴いてそれがいいかどうか判断するときには、寝ながら聴いたり、コーヒー飲んだりしながら、呼吸をするように向き合っています。

録音になると身体的な要素が入ってきて、そこが一番大変なんです。 本来は始まりも終わりもないアルゴリズミック・シーケンスを録音物として記録する行為。 できるだけ違和感を減らすことに集中して、不確実性の高い音像に普遍性を宿らせることを目指して神経反射でシンセサイザーを制御します。 身体による制御に加えて、マインドセットというか意識の設定も重要な氣もします。

モジュラーシンセを道具として身体的に扱っていくには、そのぐらいの精神力がいるということですね。

そうですね。 僕は今の場所に来なければこうした集中力を保つことはできませんでした。 自然のリズムと同期を取ることが困難な過密な都市環境では、このようなアプローチは難しかったですね。 あくまで、僕の場合ですが。

何も結線されていないシンセサイザーにはじめて向かうときにはある程度の勢いがないといけない

そんな録音を終えると、やはり開放感があるんでしょうか。

めちゃくちゃあります。 本当に力が抜けるというか、『終わった!』みたいな。 厳密には始まりも終わりもないんだと思いますが…。 思い返してみると、デジタルの制作ではそういった達成感のような感覚を得ることはまったくありませんでした。

2週間同じ曲に向き合い続けて、もし途中で1日遊びに行っちゃったりすると、『これはどこに繋がってるんだっけ?』みたいなところからやり直すことになるので、そもそも構造を把握し直すまでに時間がかかっちゃうんです。 なので、録音を終えないと作業をやめられない。 ただ、そこまで時間をかけてつくったものを、まだ1個もリリースしていない。 だから、なんのためにやっているのかもよくわからない。 というのも、外の社会を見ると、現状のプラットフォームや世の中での音楽の嗜まれ方と、自分の目指すものとの間に大きな隔たりがあります。 再生環境やフォーマット、消費の形などを含めて、音楽とは何か、再定義が必要な状態に差し掛かっているように個人的には感じます。

フォーマット自体が発達して、豊かな情報量の音源を聴くことができるような環境が広く整うようなときまで、ということですね。

でも、それには厳密にはまだまだ時間がかかると思っています。 リスナーの環境はコントロールできないですし、このような環境を再現するにはそれなりにコストもかかります。 何が起きているのか体験したい人はここに来てください、と思っています。 一次情報以外は体験とは呼べない、と個人的には思っていて、複製されたメディアを介してしまう時点で、現象として、そもそも再現不可能な領域がどうしても発生してしまう。 そのような脆弱な環境で物事を評価してしまうことは、感覚や認知能力を劣化させてしまう危険性を孕んでいると思います。 そのインスタントさ故に、認知領域を自ら狭めてしまう副作用が、複製メディアには存在すると思います。

古民家に飾られた掛け軸のアート

取り戻した「波形中毒者」としてのアイデンティティ

表現を続けている人にはそれぞれ固有のモチベーションがあって、単に制作するだけではなく、「人に聴いてもらう」ことがモチベーションになる人も少なくない。 JEMAPURさんの活動は、そうしたものとは距離をとった、また異なるモチベーションに突き動かされているように思います。

そうですね。 今の自分は外部からの評価とかそういったものにあまり興味がなくて。 そもそも宇宙が存在している時点で、それ自体がもうすでに興味津々なんです。 音に向かうためのモチベーションは自然の流れの中に存在しています。 なんでこの宇宙はあるんだろうとか、なんでこれをこうしたらこんな挙動が起こるんだとか、シンプルに世の中で起こるありとあらゆる現象に対して疑問だらけなので。 生きていくなかでハテナしかないんですよ。 疑問が出てきたら衝動が勝手に発生するし、自然界からエネルギーをしっかりと充電していたら活動できる。 そう考えると、そもそもモチベーションという言葉自体が自分にとってはあまり重要ではないかもしれないと思います。 常に興味が止まらない状況です。

JEMAPURという名前でアルバムをつくって発表して……というアーティストとしてのサイクルに身をおいていた時期と比べると、モジュラーシンセという道具を手に入れ、長野に移住したことによって、ご自身が長らく掲げてきた「波形中毒者」という肩書というか、自らのあり方に忠実になれているんだなと感じます。

まさに、帰ってきたみたいな氣がします。 都内にいたころの自分は麻痺していたというか、主体性がどこかに行ってしまっていたと思うところがあるんです。 当時はまだ自分のことをよく知らなかったせいで、消耗し切ってしまいました。 信州へ来て1年くらいはその状態からの回復に努めていました。 もう本当に誰とも喋ったりもできないぐらいに病んでいた状態から、温泉に入ったり伏流水を飲むことで改善していきました。 自然に身を委ねたり、共鳴することで、精神や身体を癒すことができるような環境に身を置くことができてよかったな、と感じています。

音波時空観宇宙研究所

リミットで覆われているデジタルの制作環境は、社会構造とも相似する

制作中に癒やしを得ることはありますか?

ありますよ。 もう、Buchla*のリバーブとか、そのまま流すだけで……。 Eurorack**は動作電圧が12ボルトなのですが、Buchlaは15ボルトなんです。 Buchlaは比較的最近導入したものなのですが、この15ボルトの回路の音がすごすぎちゃって。 高次倍音を重ねていった時が特にすごいんです。 頭が真っ白になりますよ。 癒やしというか、スイッチが入る感じ。 鳥肌が立つんですよ。 発見したことがない未知の領域を探究しているような感覚。 モジュラーシンセと一緒にこの空間にいるんだけれど、意識は膨張している宇宙の先端にいて、誰も行ったことがないところにいる。 そんな表現を目指しているんです。

15ボルトの回路の音についてかたるJemapur

自分のなかでは、そもそも音をつくるという行為自体がセラピーかもしれないです。 音って、本来は集団生活のなかで必要な道具にすぎなかったと思うんです。 それがだんだん、生活に関係ない要素がごてごてになってしまったのが今の音楽かな、と。 そういう意味でいうと、皆には音を聴くよりも、音と戯れてほしいなと思います。 演奏するなり、そうでなくても、散歩中に電信柱を木で叩いたっていいんです。 なんでもいい。 箸で食器を叩いても良い音がするし。 原始的な形で音と仲良くするとシンプルに楽しいことが多いと思うんです。

音に対する感性や感覚が鈍るということは、生き物として危うい状態なんじゃないかな。 音を触っていなかったら僕は精神状態を損なったままだったと思いますね。

*Buchla:Moogと並ぶ老舗シンセサイザーのブランドで、カルト的な人気を誇る
**Eurorack:モジュラーシンセサイザーのデファクト・スタンダード的な規格

Jemapurの部屋のサウンドシステム

自然だけではなく、モジュラーシンセを通じて音に触れることも癒やしになっていたんですね。

僕の部屋のサウンドシステム……この話はしていいのかな。 僕が使っているシステムは友人が開発しているものなんですけど、一般的なサウンドシステムとは根本から設計思想が異なるような音響装置で、周波数特性が他と大きく異なります。 このようなシステムで音の実験ができるということは、とてもありがたいご縁だな、といつも感じています。 モジュラーシンセの音は自然界で発生する音の波の形に極めて近く、強烈な現象なのですが、それを録音してプロセスする環境については、まだまだ不十分なことが多いなと感じています。 PCMでの編集の場合、苦肉の策で、Reaper*というDAWを使っていました。 それだと768kHzまでレンダリングすることができるんです。 あと、Audacity**も。 主流ではないいくつかのソフトウェアだけが、このサンプリングレートのリミッターを解除してくれている。

これは世の中の構造とも似ているかもしれないですね。 オープンソースの世界にはリミットがないのに、社会自体はその表面がリミットで覆われていて、一見何も存在していないようにすら見える。 でも、実際そういったリミッターの先の世界はすでにどこかに存在するんだけど、見えない、まだアクセスできないっていう。 じわじわとこういった現象が混ざっていったら面白いことになりそうだな、と思います。

*Reaper:初期リリースのver.0.999が無償で利用可能。 有料版でも、他のDAWと比べて大幅に安価
**Audacity:オープンソースの波形編集ソフト

JEMAPUR

ジェマパー

JEMAPUR(ジェマパー)

波形中毒者、電子音楽家、サウンド・デザイナー / コーダー。 周波数や波そのものが生み出す現象への興味を軸に、モジュラー・シンセサイザーを用いて、時間的/空間的に循環しながら変容し続ける音の生態系として現象化することにより、体験者の知覚、認知活動に対して影響・拡張し得る領域について実験と研究を重ねている。 近年ではドキュメンタリー映画『太陽の塔』の劇中音楽を全編に渡り作曲を担当、2019年にはStudio The Future協力のもと、オランダのアムステルダムにあるクラブ・複合施設De Schoolにて彫刻家のVictoria Galvaniと共にエキシビション『RESONANCE: Synesthesia + Feedback』を1カ月に渡り開催するなど、活動の領域を広げている。 2021年にはオランダのデルフトを拠点とする新興レーベルOmen WaptaよりLP『Mode Cleaner』をリリース、2023年にはUN_Nより3枚のアルバムを発表している。

HP
UN_N
Astral Space Lab

Photos:Keisuke Tanigawa
Words:imdkm
Edit:Kunihiro Miki