昭和時代、日本独自のポピュラーミュージックとして数多くの名曲を生んだ「歌謡曲」。その魅力をひも解く本企画では、アーカイヴァーの鈴木啓之さんにご案内いただき、世代を超えて愛され続ける名曲をその背景とともに紹介していきます。
今回とり上げるのは、中森明菜の「北ウイング」。憂いを帯びた歌声とドラマティックな世界観で1980年代の歌謡界に鮮烈な印象を刻んだこの曲を入り口に、独自の表現力で存在感を放ち続けた彼女の魅力とその歩みをたどります。
『スター誕生!』が生んだ最後の黄金世代
70年代に山口百恵、岩崎宏美、ピンク・レディー、石野真子らアイドルを中心としたスターを数多く輩出した日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』。1971年にスタートした番組は12年間続いた後、1983年にその幕を閉じた。
その後、1984年になってからデビューした岡田有希子が番組から送り出された最後のビッグスターとなったが、それより以前、共に1981年に合格し、翌1982年にデビューしてトップアイドルとなったのが、小泉今日子と中森明菜である。
アイドルの当たり年となったことから「花の82年組」と呼ばれた同期の中でも特に顕著な活躍を見せた二人の存在がなければ、番組はもう少し早く終焉を迎えていたかもしれない。そして中森明菜は既に大活躍していた松田聖子のライバル的なポジションで80年代のアイドル界を牽引してゆく。
史上最高得点での合格から始まった物語
1981年7月、16歳の誕生日を2日後に控えた中森明菜は、3度目の挑戦となった『スター誕生!』の本選で山口百恵の「夢先案内人」を歌って見事合格する。史上最高点での合格で、審査員の作曲家・中村泰士は持ち点上限の99点をつけた。歌手を夢みながらも叶わなかった母親の想いを受け、いつしか歌手を目指すようになり、番組へも自らハガキを書いて応募していたのだった。
ボーカルレッスンを受けた後に臨んだ11月の決戦大会(放送は12月)でも再び「夢先案内人」を歌い、計11社のレコード会社や芸能プロダクションから指名のプラカードが上がって遂に芸能界入りの切符を手にする。事務所は研音、レコード会社はワーナー・パイオニア(現・ワーナーミュージック)と契約し、1982年5月1日に「スローモーション」でデビューを果たした。来生えつこ作詞、来生たかお作曲の姉弟コンビによる作品であった。
7月1日には早くもファーストアルバム『プロローグ〈序幕〉』をリリース、さらに同月末に2枚目のシングル「少女A」が発売されて間もなく、8月には中野サンプラザでファーストコンサートが開催される。
アルバム曲のほか、岩崎宏美「シンデレラ・ハネムーン」や、デビューのきっかけとなった「夢先案内人」も歌われた。しかしこの時点ではまだそれほど知られていない存在で、リリースからしばらく経っていた10月に「少女A」がベストテンに入るヒットとなってブレイクする。売野雅勇作詞、芹澤廣明作曲による激しめの楽曲はデビュー曲「スローモーション」とは180度異なる曲調で、思ったことははっきり主張するという性格にマッチした曲だったといえる。
しかしながら本人としては可愛い曲や衣装を望んでいたらしくむくれながら歌っていたというが、それが功を奏して新人・中森明菜のキャラクターを決定付けて全国的な人気を得ることに。一方であどけない表情や無邪気な笑顔を見せるギャップに惹かれたファンは多かっただろう。
タイトルを決めたのは中森明菜だった
翌1983年、3枚目のシングルは最多売り上げを示した「セカンド・ラブ」。続いて「1/2の神話」「トワイライト -夕暮れ便り-」と、当初は静と動の曲が交互にリリースされた。細野晴臣が作曲した「禁区」が9月にリリースされた後、年が明けた1984年1月1日にリリースされた7枚目のシングルが「北ウイング」である。
作曲の林哲司と作詞の康珍化が初めて起用されたのは中森明菜自らの希望であったそうで、当時ヒットしていた杉山清貴とオメガトライブの楽曲を聴いて魅了されたのだという。かつて山口百恵がダウン・タウン・ブギウギ・バンドを聴いて宇崎竜童からの楽曲提供を切望したというエピソードを彷彿とさせる。そう考えると山口百恵と中森明菜は何かと重なる部分が多い気がする。そして康と林のコンビは見事にその期待に応えたのだ。
一気に惹き付けられる導入部を経て、一旦穏やかな曲調に戻ってから次第に勢いを増し、サビで一気に突き抜ける。正に歌謡ポップスの手本ともいえそうな鮮やかな構成で、時に柔らかく、時に激しく、絶妙に歌い分けるヴォーカルに魅了される。
当初は「夜間飛行」や「ミッドナイト・フライト」が候補だったというタイトルが、中森自身の提案で「北ウイング」となったのはよく知られた話だ。年末の賞レースでは大賞にこそまだ手は届かなかったものの、フジテレビのFNS歌謡祭では最優秀ヒット賞を獲得し、大衆から広く支持された曲であることが証明された。シティポップの担い手として昨今再評価著しい林哲司の提供曲の中でも秀でた傑作である。
以降も井上陽水の作詞・作曲による「飾りじゃないのよ涙は」や、2年連続で日本レコード大賞を受賞することになる1985年の「ミ・アモーレ」と1986年の「DESIRE -情熱-」などヒットを連ねてスター街道を驀進。1987年には加藤登紀子作詞・作曲の「難破船」のような一切外連味のない曲を歌うなど次第にアイドルからは脱却してアーティスト化していったが、「北ウイング」は中森明菜がバリバリのアイドルだった頃に魅せた、ある意味頂点の曲だった様に思われる。
当時まだ生まれていなかった世代も含めて、現在も中森明菜が広く支持されているのを見聞きするにつれ、あの頃の歌やパフォーマンスがいかに凄いものであったのかを改めて思い知らされる。
鈴木啓之
アーカイヴァー。テレビ番組制作会社勤務、中古レコード店経営を経て、ライター及びプロデュース業。昭和の音楽、テレビ、映画を主に、雑誌への寄稿、CDやDVDの企画・監修を手がける。著書に『東京レコード散歩』『昭和歌謡レコード大全』『王様のレコード』ほか共著多数。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』、MUSIC BIRD『ゴールデン歌謡アーカイヴ』、YouTube『ミュージックガーデンチャンネル』に出演中。
Words:Hiroyuki Suzuki
