元ゴールドマン・サックスのマネージング・ディレクターとして投資部門の日本共同統括を務めた経歴を持ち、現在はラジオパーソナリティとしても活躍する投資家・田中渓氏。 在籍中に手がけた投資案件は、総額で約4,000億円、資産価値・企業価値ベースでは合計1.2兆円を超える。

長年にわたり第一線で成果を上げてきた金融投資家は、無類の音楽愛好家でもあった。クラシック、ジャズ、J-POP、ヒップホップなど、彼の人生に大きな影響を与えた音楽と、築き上げたキャリアとを結ぶ意外な関係について話を聞いた。

初めての挫折。救ってくれたのは音楽だった。

田中さんの音楽遍歴を教えてください。忘れられない音楽体験はありますか?

最初に心を動かされたのは、中学の新入生歓迎会で吹奏楽部の演奏を聴いたとき。僕の通っていた学校の吹奏楽部は全国大会に行くようなレベルで、「OMENS OF LOVE」というT-SQUAREのビート感のある曲を演奏していました。楽器と楽器の音が重なり合うハーモニーに 表現できないほどの衝撃を受けました。

中学受験では第一志望の学校に落ちてしまったそうですね。

慶應に進学したかったのですが、残念ながら不合格でした。大げさですがそのときはこの世の終わりのように心が折れ、滑り止めで入学した学校で中高6年間を過ごすモチベーションをまったく持てませんでした。 そんな中、音楽との出会いに衝撃を受け、 “やりがい” と呼べるような熱いものを初めて感じたんです。「吹奏楽部に入り、全国大会を目指したい!」との思いが、まるで北極星のように自分を導く唯一の目標となりました。

担当した楽器はトロンボーン。本当はオーボエがやりたかったんですけどね。大体オーボエって裏旋律を吹くんです。メインストリームのメロディではなく、裏で綺麗な旋律を奏でている感じがいいなと思っていて。

それまで音楽経験がなかったそうですが、よくそこまで繊細な音の違いに気づきましたね。

父が昔からクラシックやフォークをすごく聴く人で、アコースティックギターも弾いていました。家にはB&Wの古いスピーカーがあったりして。しかも土日になるといつも、実験用に自作したアンプの音を聴かされたりしていました。音に対する興味はなかったのですが、音響マニアの父のおかげで耳の素養だけは勝手に育ったのかもしれません。

当初はオーボエを担当したかったそうですが、高校3年生までの6年間はずっとトロンボーンを?

活動していくうちに、フルコミットできるくらいトロンボーンが好きになりました。トランペットみたいな主役ではないけれど、たまに主役も張れるし、吹奏楽だけでなくジャズやクラシックなど幅広いジャンルで演奏できるパワフルさがある。僕の声も重低音だし、なんかマッチしたんでしょうね。

吹奏楽部のバンド自体はコンクールの東京都大会で金賞を獲りましたし、トロンボーン、トランペット、ホルン、チューバで編成されたアンサンブルに選抜として選ばれ、こちらも東京都のコンクールで金賞をもらいました。

バンド全体の成長だけでなく、個として戦っていく活躍の場を与えられて結果を残せたことは、自己肯定感の向上に役立ったと思います。受験で落ちた自己肯定感を、音楽が救ってくれました。

当時の経験が、金融投資家としての考え方や仕事に役立ったと思うエピソードはありますか?

実は中学3年から高校2年までの3年間、学生指揮者をやっていたことがあるんです。その経験は、ゴールドマン・サックス時代にかなり役立ちました。僕の投資のプロジェクトは、不動産など不良債権といわれるもの。安そうなものを見つけて投資をし、あとで高く売る仕事なのですが、社内の偉い人に「これを買いたいです」と説明するまでにたくさん調べ物をするんです。

そのときに、弁護士、会計士、税理士、コンサルタント、不動産鑑定士など、さまざまな専門家とチームを組むことになります。自分はそのメンバーをまとめ、指示を出し、最終的な意思決定を担う立場でした。

まさに “オーケストレーション” のようなものです。指揮者が楽譜を見ながら「この楽器にはこう演奏してほしい」とイメージを膨らませ、「テンポはこのBPMで行こう」と方向を定めていくように、プロジェクトマネジメントの場でも同じ発想が必要でした。指揮者として培った力が、仕事の現場で驚くほど役立ったんです。

なぜ指揮者になろうと思われたんですか?

大した理由じゃないんです。部長や副部長を狙っても、演奏するときには誰かわからないですよね。女子校の子たちがいっぱい観にくる大会で、ど真ん中に立って礼をできるのって指揮者しかいない。目立ちたいと思っただけです(笑)。

中高時代はクラシックの世界にどっぷりと?

学校の帰り道に渋谷に立ち寄って、ほぼ毎日タワーレコードとHMVに通っていました。たとえばブラームスの「交響曲第一番」でも、カラヤン(Herbert von Karajan)が指揮棒を振るベルリン・フィルの演奏と、アバド(Claudio Abbado)が指揮を務めるウィーン・フィルの演奏を聴き比べしたくて同じ曲のCDを買ったり。

チャイコフスキー(Peter Ilyich Tchaikovsky)の「1812年」という曲のCDは、15枚くらい持っています。そのうちグレン・ミラー(Alton Glenn Miller)とかジャズも聴き始めて。ワールドミュージックやイージーリスニング、エレクトロなど、どんどん音楽の幅も広がっていきました。毎日CD屋やレコード屋に行くので、マニアックな知識を持つ店員さんたちと仲良くなり、ベーシストのマーカス・ミラー(Marcus Miller)を教えてもらったりもしました。

J-POPはまったく通らなかったのですか?

中学1〜2年生の頃、いわゆる中二病で(笑)。「J-POPを聴くのはダサい」と思っていたことが一時期あったんですけど、そのほうが恥ずかしいと思い直しました。いわゆるFOMO(Fear Of Missing Out/取り残されることへの恐れ)の精神で、みんなが盛り上がっているものもちゃんと知りたいという気持ちがあったんです。

しかも当時はカラオケが歌えないと人権がなかったんです。一般教養としてSPEEDやMAXの曲がわからないといけないし、小室ファミリーが誰かわからなきゃいけない。ビジュアル系バンドの全盛期だったので、GLAYとかL’Arc〜en〜Cielも歌えないとダメ。無理してキーが合う曲を探したり、めちゃくちゃキーを下げて歌ったりしていました。

高校時代はいわゆる “マイルドヤンキー” といわれる見た目だったそうですね?

耳にピアスの穴を開けて、髪の毛にツイストパーマをかけたりして。当時すごく流行っていたんです。日サロで焼いて街に繰り出して、新宿か渋谷か池袋あたりでプラプラして、女の子をナンパしてプリクラを撮りに行くっていうのが王道のコースでした。一度学校の奴らと5人くらいでいるところを『東京ストリートニュース!』という雑誌に載せてもらったこともありました。小さい枠でしたけど、舞い上がりましたね。

音楽大学を目指したこともあるそうですが、断念されたのはなぜですか?

トロンボーンで音大に行くのは非現実的だなと早めに気づいたんです。その頃、NHKで「トロンボーンサミット」という2〜3時間のコンサートを放送していて、ビデオに撮って何回も何回も観ていました。

繊細な音を出す人、パワフルな音を出す人、速弾きをする人など、いろんなスキルを持つ人たちが集められていて。そのコンサートの最後のほうで「76本のトロンボーン」という曲を弾くんですけど、世界中から集められたトロンボニストが76人集結していて。ソロを吹けるのが5人なのですが、僕は残りの71人になるのも無理だろうと思いました。

その頃、学校に教えにきてくれていたOBが職員室で給料の交渉をしている姿をたまたま見てしまって。その方はプロのトランペッターで、僕らからするとスーパースター。それなのに車のガソリン代を気にしていることを知って、その先の経済圏がリアルに見えちゃって。おそらくスーパーカーを買ったり、何不自由なくご飯を食べていく感じにはなれない。自分の力量のなさも含めて、プロを目指すことはやめました。

暇さえあればターンテーブルを触っていた大学時代

吹奏楽に青春を捧げた高校時代から一転、大学ではDJを始められたとか。

大学ではどこかのオケに入ってトロンボーンを吹ければいいかなと思っていたんですけど、クラブ系のおもしろいお兄ちゃん&お姉ちゃんたちに出会っちゃって。DJは機材とレコードさえあればひとりでいかようにもできるので、ヒップホップを中心にDJ活動にどっぷりハマっていきました。Audio-TechnicaのDJヘッドホンを使っていましたよ。

当時はクラブでかなり遊ばれていたんですか?

「DJってモテるでしょ」と言われるし、僕もそう思ってたんです。でもDJブースの中にいるので実際は遊べないんですよね。みんながテキーラで酔い潰れていく中で、DJはプレイしていなきゃいけない。気づいたらかわいい子も友達もいなくなっているみたいな(笑)。盛り上がっている時間はクリスティーナ・アギレラ(Christina Aguilera)とかを流すけど、朝4時頃に寂しくアリーヤ(Aaliyah)を流して終わりみたいな感じでした。

当時はどこのクラブでプレイしていましたか?

レギュラーでやっていたのは渋谷のSIMOON。あとは準レギュラーみたいな感じで渋谷と六本木のNUTS、渋谷にあるclub bar FAMILY、池袋のBEDあたりですね。渋谷のHARLEMの早い時間とか、川崎のCLUB CITTA’のイベントに呼んでもらったりもしました。

渋谷の宇田川町には毎日通っていました。とりあえずManhattan Recordsで新譜のレコードを見てから、DMRやCISCOに寄って、それでも暇だと中目黒のレコード屋をまわったり。とにかく当時はレコードを買いまくり&聴きまくり。お金がないのでコンビニやカラオケ屋、引っ越し屋、塾講師、選挙の手伝いなど、日雇いのバイトをしていました。

初めて買ったレコードは?

ギャング・スター(Gang Starr)の『Full Clip:Decade of Gang Starr』です。その頃は暇さえあればターンテーブルを触っていて、親によく「うるさい」と言われてました。ゴリゴリのスクラッチはしませんでしたけど、2枚使いでループをしたり。

レコードは3,000枚くらい持っていたと思います。引越しのたびに少しずつ減らしていきましたが、1,000〜1,500枚はトランクルームに眠っています。今でも一軍の100枚くらいは自分の部屋にありますし、一応ターンテーブル2台とミキサーもしっかり置いてあります。

DJに夢中になりながらも、主席で卒業されるほど勉強も両立されていたのがすごいです。

入学した頃に「大学デビューはダサい」みたいな考え方で少しこじらせていたので、サークルには入りませんでした。サークルでワイワイ騒ぐノリが軽く感じられたので。みんながコールをかけてお酒を飲んでいる間は、バイトしているかクラブにいるか。日中はちゃんと授業に出て勉強していたので、そこの違いじゃないですかね。

クラブ界隈もワイワイしているけれど、ちょっと種類が違うじゃないですか。音楽やカルチャーが好きという根っこがある。そっちのほうが楽しかったです。

ちなみに当時はどんなファッションを?

ちゃんとダボダボの服を着ていましたよ(笑)。EVISUのジーンズが流行っていたので、お尻にMと書いてあるデニムを履いて、でっかいTシャツとニューヨーク・ヤンキースのキャップをかぶっていました。

エリート集団の中にいるとアイデンティティを失いそうになる──だからこそ心に響いたブラックミュージック

オーディオテクニカ社内のスタジオ(Astro Studio)にて、Oswald’s Mill Audioとの共同プロジェクト「Deep Listening」を体験

田中さんに強い影響を与えたブラックミュージックの中から、ご自身を表す5曲を挙げていただけますか?

まずはビギー(The Notorious B.I.G)の「Sky’s the Limit」。汚い言葉の歌詞もあるのですが、「諦めなければ人間、不可能はない」、「できないことはない」みたいに歌っているサビの歌詞が好きです。

次に、僕の原点であるギャング・スターの「Mass Appeal」。ひとつの小節を気が狂いそうなくらいループするDJプレミア(DJ Premier)のトラックが特徴的な曲です。ラッパーのグールー(Guru)が歌う「大勢のラッパーは一発屋。ああいう気取り屋が一番嫌いだ」、「俺の独特のスキルは比較にならない」という歌詞は、今の僕の気分に近いんじゃないかなと思っています。

R・ケリー(R. Kelly)の「The World’s Greatest」は、「俺は空に輝く星だ、俺は高くそびえる山なんだ」、「俺はやったんだ、世界で一番偉大な存在なんだ」、「俺は巨人で、鷲で、ジャングルに住むライオンで、マーチングバンドで、人々で、救いの手で、ヒーローなんだ」と自己暗示するような、すごく感動的な曲です。

4つ目はコモン(Common)の「The 6th Sense ft. Bilal」。これもDJプレミアがプロデュースしている曲です。「もし大金をいらないと言ったら嘘になる。でも俺は金を貯めるよりも子ども達を守りたい」など、腐った音楽業界で正しいお金の使い方をすると歌ったリリックが好きです。

エリーシャ・ラヴァーン(Elisha La’Verne)というR&Bシンガーの「I’m Not Dreaming(N43°Remix)」。「Just the Two of Us」(Grover Washington Jr.)を元ネタにした「Really into You」(Around the Way)を、さらにサンプリングした曲です。単純に曲調が好きだし、歌詞そのものはめちゃくちゃ恋愛を歌ってるんですけど、「夢を見てるわけじゃない」という現実を直視している感じも好きです。

田中さんが影響を受けたブラックミュージックは、社会的に抑圧されている人々が生み出した音楽です。資本主義の中心である金融の世界にいる田中さんとは、背景的に距離があるように思えるのですが。

日本に生まれた日本人という時点で、世界的に見ると超富裕層だと思います。だけど自分の中では、それこそ中学受験に失敗したり、ゴールドマン・サックスに入社してからは学歴的に最下層の扱いを受けていました。王道のど真ん中でキラキラやってきたというよりも、マイノリティとしての疎外感があるんです。

そういう意味でブラックミュージックに対する共感はあって。エリート集団の中にいると「自分は特別じゃない」と思うし、アイデンティティを失いそうになるんです。そういうときに、マイノリティからのし上がる人たちに自分を重ね合わせるくらいしか、心の置きどころがなかったところはあります。

かといって「学歴やお金なんてクソだ」と吠えているだけではダメ。成功しているラッパーたちもストリートの厳しい環境からのし上がって誰もが羨むビリオネアになり、若いラッパーたちを育成していくじゃないですか。自分の腕でのし上がっていくその流れがかっこいいと思っていて。ブラックミュージックを聴くことが、自分の気持ちを高めることに役立ったと思います。

ただ、30代半ばくらいからはゴリゴリのヒップホップはあまり聴かなくなりました。年齢的なものもあるんでしょうけど、クラシックやジャズをもう一度聴くようになりました。今の僕には強いメッセージよりも、技術を超越した人たちの演奏を知りたいという気持ちがある。だからずーっとバッハ(Johann Sebastian Bach)とかを聴いています。原点回帰しているのかもしれませんね。

田中渓

1982年 横浜出身。上智大学 理工学部物理学科卒業。学科首席として表彰を受け同大学院に進学し、外資系の世界を目指し始め急遽渡米。ビジネスセミナー「CVS Leadership Institute」に参加し個人優勝、チーム優勝を果たす。大学院中退後53回の面接を経て、ゴールドマン・サックス証券株式会社に2007年に新卒入社。同社でマネージング・ディレクターに就任し、投資部門の日本共同統括を務め、2024年に同社を退社。現在は少数精鋭の投資会社にて勤務。同社の不動産投資の責任者を務める。私生活では365日朝3時45分に起床して25km走る生活を続け、アスリートとしても精力的に活動。24時間耐久レースやトレイルランニング、アイアンマンレースなどに出場している。著書に『億までの人 億からの人 ゴールドマン・サックス勤続17年の投資家が明かす「兆人」のマインド』がある。「Beyond K-pont」(interfm)、「田中渓 LIFESTYLE BLUEPRINT」(CROSS FM)の2本のラジオ番組でパーソナリティを務めている。

Photos:Soichi Ishida
Words&Edit:Kozue Matsuyama

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