明治神宮前駅から徒歩10分ほどの場所にあるレコード店「BIG LOVE RECORDS」。細い階段を上がった先にある店内は、バースペースもあり、まるで隠れ家のような佇まいだ。
1970年生まれの店主・仲真史は、この場所で屋号を変えながらも90年代から自らがセレクトしたレコードと、Tシャツやキャップ、トートバッグをはじめとしたオリジナルマーチャンダイズを扱い続けている。
中古盤を一切扱わない彼の信念の背景にあるのは、「カルチャー」に対する明確なビジョン。90年代から音楽とファッションの最前線を見続けてきた仲の言葉は、現在のカルチャーシーンに対する鋭い洞察に満ちている。
「昔話はカルチャーを生まない」——そう語る仲の審美眼の根底にあるのは、「カルチャーは若者のためのもので、現場で発見されなければならない」という揺るぎない信念だった。
「中古盤を扱わない」に込められたBIG LOVEの信念
BIG LOVE RECORDSが中古盤を扱わない理由から教えてください。
もともと前に勤めていた輸入レコード屋で働いていたときから「この利益率ではビジネスとして続かない」と感じていたんです。バブルの頃はレコード屋も盛況で、売れてはいたけど、構造的に無理があるなと。だから最初は「ESCALATOR RECORDS*」という自分で立ち上げたレーベルを中心に活動して、店はあくまで拠点のひとつという感覚でした。
決定的な出来事は、フランスでの買い付けでした。仲のいいセラーが「日本人がこの10枚を30万円で買っていった。1枚3万円で仕入れて、10万円で売るって言ってたよ」と話してくれた。見せてもらったら、それが全部、僕がムック本で紹介したレコードだったんです。
*ESCALATOR RECORDS:1993年の設立のインディペンデントレーベルで、渋谷系のムーブメントにおける重要な役割を果たし、オーナー・仲真史のソロユニットLosfeldなどをリリース。レコード屋とカフェが併設された「SHOP ESCALATOR」は、2008年に「BIG LOVE RECORDS」へと名称を変えた

ご自身がレコメンドした盤が高額転売されていたと。
そうなんです。僕は1ユーロくらいのレコードを掘り出して、せいぜい2〜3,000円で売ってみたいなことしてたのに。帰りの飛行機でその人と同席になって、僕は汗だくで重いバッグを抱えてクタクタ、一方でその人は軽やかに帰国して自分の店に向かう……。その姿を見て「これは違うな」と思った。
自分も同じことをやれば儲かるのかもしれない。でも、それは自分の美学に反する。便利さや投資的な価値だけを提供する商売では、カルチャーは絶対に育たないと思ったんです。面白いものを発見して紹介するという行為こそが重要で、そうでなければただの便利屋になってしまう。
過度な安売りも同じ理由で好きじゃないんです。安いから買う、得だから買うという動機だけでは、そこに文化的な価値は生まれない。売る側も何も考えていないことが多いし、結局は潰し合いになってカルチャー全体が痩せ細ってしまうんです。
今はDiscogsなどでレコードやカセット、CDの価格が可視化されていますね。
僕らの時代は、レコードの値付けも価値も店側が決める余地がありました。でも今は全部ネットに情報が出てしまうから、それを前提に取引が進む。どんなに素晴らしい音楽を作っていても、価格が低く見えると評価も後回しにされがちになる。でもそれは時代がその作品に与えた評価額でもあるので、我々はもちろんレコード会社やミュージシャン自身も無視はできないものだとも思います。

だからこそ、市場価格が可視化された中古盤ビジネスには参加しない?
いや可視化されているのはBIG LOVE RECORDSで扱う新譜のレコードも同じなんですよ。だからこそ適正な数量だけを扱うことに意味を見出しています。
例えばうちは500枚売れる可能性があっても、あえて300枚で止めています。適切な希少性を保つことが、結果的にアーティストとお客さんの双方にとって健全な環境につながると思うんです。現代的に言えば、ある種のサステナビリティだと感じています。中古盤ビジネスに参加しないのは情報が共有される今は古着ビジネスと同じで単純に大変そうだなと思うからです。
BIG LOVEのTシャツなどが「ファッションアイテム」足り得るワケ
そもそもBIG LOVEでTシャツなどのマーチャンダイスを扱うようになった経緯は?
僕はもともとファッションが大好きで、バンタンデザイン研究所に進学しました。同年代にはNIGO®さんやジョニオさん(UNDERCOVERの高橋盾)もいて、彼らは文化服装学院。接点はありませんでしたが、当時から文化のほうが「エリート」扱いで、こっちは「落ちこぼれ」(笑)。バンタンにはファッション志望の学生はあまりいませんでした。
少し肩透かしを食らった気持ちもあったんですけど、クラブで音楽好きの仲間ができて、自然に音楽漬けの毎日になっていきました。19歳のとき、自分でブランドのようなものを立ち上げて、学校のコンテストに出したら1位を取りました。Vivienne Westwoodなどをサンプリングして、自分なりに組み合わせたスタイルで。今思えば、これもサンプリングカルチャーの一種だったのかもしれませんね。

その頃から古着などの買い付けもされていたんですか?
学生だったのでお小遣い稼ぎが必要で、代々木公園のフリーマーケットに通って仕入れをし、地元の名古屋で売るようになりました。COMME des GARCONSのシャツなんかが安く手に入って、「これならいける」と思って売っていた。
そのなかに自作の服を混ぜて販売したら、名古屋のショップから「今度ショーに出てみない?」と声をかけられたんです。当時、有名なデザイナーたちと一緒にショーに参加させてもらえたのは、貴重な経験でした。それが1989年、90年頃で、ちょうどインディペンデントなブランドがちょこちょこ出てきて、セレクトショップに置かれるようになった時代。

仲さんのなかで、ファッションと音楽は自然と近くにあったんですね。
そうですね。そのときに、自分のブランドのものを買ってくれた人に配るために作ったのが音楽のZINEだった。それが楽しくて、だんだん小山田圭吾くんや小沢健二くんとの縁が広がり、彼らのインタビューや雑談を載せるようになったんです。
当時はZINEではなく「FANZINE」と呼ばれていました。どこで印刷するかもわからないくらい、手探りの状態でした。300円くらいの値段でしたけど、今残ってたら貴重かもしれない。実際、ヤフオクで見かけることもあります(笑)。
あの頃は雑誌の影響力が絶大で、瀧見憲司さんがかつてあった音楽雑誌『FOOL’S MATE*』に僕のレーベルのレビューを載せてくれただけで、500枚が一瞬で売れました。たった2店舗にしか置いてなかったのに。
*FOOL’S MATE:1977年に創刊された音楽雑誌。渋谷系のレーベル「Crue-L Records」の主宰で、DJの瀧見憲司らが編集として携わった。当時の誌面ではニューウェイブ、ポストパンクなどの先鋭的な音楽が扱われていた

当時の雑誌カルチャーは今とは比べものにならないほど影響力がありましたよね。
そうですね。雑誌に載ることで、レコードの価格も大きく変動しました。小山田くんや瀧見さんたちが「僕が紹介する前は1,000円で買えたレコードが全部1万円になっちゃうから、もう言いたくない」と言い始めたんです。でも僕は「それは絶対ダメだ」と思った。みんな彼らみたいなカリスマの情報が欲しいし、洗練された人たちが手がかりを教えてくれることで、カルチャーが底上げされていくと僕は思うんですよね。
90年代前後のクラブシーンとファッションの蜜月
仲さんの音楽のルーツはニューウェーブですか?
そうです。ジャパン(Japan)の後にカルチャー・クラブ(Culture Club)が出てきた時代で、当時『RiO』という音楽雑誌があって、たしか1年か1年半で終わってしまいましたが、今思えばすごい雑誌でした。ニューウェーブの音楽とファッションを同時に扱っていて、そのカルチャーミックスが本当に好きだった。
80年代前半、僕が15、16歳の頃ですが、そういうブランドやカルチャーがあったんです。その後一度ファッションから遠ざかったんですが、80年代後半にマンチェスタームーブメントが起こって、ザ・ストーン・ローゼズ(The Stone Roses)やハッピー・マンデーズ(Happy Mondays)が出てきたときは、音楽とファッションが再び結びついた。
当時、吉祥寺に「shop 33*」という店があったんです。そこはマンチェ系のアイテムを扱う店で、客同士の間で「ネオアコ軍団」と「マンチェ軍団」の対立があったんです。みんな同じパーティーに来てるのに、いがみ合ってる(笑)。メンバーから一人ずつ出てダンスバトルみたいなことをやるんです。
*shop33:1980年代初頭にオープンしたセレクトショップ。1981年に吉祥寺でスタートしたレンタルレコードショップ「33 rpm 1/3」を起点とし、クラブウェアを中心としたセレクトショップへと変遷。2007年には実店舗をクローズし、ネットショップ「next33」に完全移行した。
映画のような話ですね(笑)。
そんないいものではなかったですけどね(笑)。
日本でも当時のクラブカルチャーは、今よりもっとファッションとの距離が非常に近かったんでしょうか?
そうですね。クラブに入るときにファッションチェックがありましたからね。2人で行っても「君はOKだけど、君はダメ」と言われる。「君のスタイルはこの店には似合いません」って。深夜23時、24時オープンだから、入場を断られたら帰るしかない。今からすると理不尽かもしれないけれど、逆にそれくらい音楽とファッションがシンクロしていた。

裏を返すと、当時のクラブという場所では音楽とファッションの両方のスタイルが求められていたというか。
そうとも言えるかもしれないですね。僕自身も瀧見憲司さんのもとで下北沢「ZOO*」でDJをしていました。あそこは当時、緊張感のある場所で、サイコビリーの方がバーカウンターを仕切っていて、客が注文してもなかなかドリンクが出てこない(笑)。
でも僕は後にバイトする渋谷のレコード店「ZEST」の店員で彼らの仲間のケンさんという方にに気に入られていて、みんな分を僕が頼むというそういう世界でした(笑)。
*ZOO:1987年に下北ナイトクラブの名前で開店、1988年にZOO、1994年にSLITSとリニューアルされたのち1995年に閉店。数々のイベントを打ち出し、仲真史は『ラヴ・パレード』にDJとして関わる。その歴史は企画兼代表の山下直樹をがまとめた名著『ライフ・アット・スリッツ LIFE AT SLITS』(2007年、ブルース・インターアクションズ)に詳しい
「昔はよかった」では、若者たちに「カルチャー」は伝わらない
90年代中頃の実感はどうですか?
95年、96年頃からだんだん優しい時代になりましたね。みんなバイオレンスな雰囲気に疲れちゃったんだと思います。80年代の怖い先輩たちがいろんな理由でいなくなって、普通の優しい人たちが店を仕切るようになった。本当に急激な変化でした。
当時、音楽とファッションの距離について、どう考えていましたか?
なんというか、音楽がマニアックになるほどリスナーとしての深さが重視されて、ファッションとしてのスタイルが弱くなってしまうところがあるなと思っていて。
ファッションのライターはオシャレだけど、音楽のライターはファッションに無頓着な人が多い印象で、これには経済的な問題もあると思うんです。ほとんどの音楽ライターはCDやレコードを買ってさらに服を買うほどは稼げないから、オシャレにお金をかけられない。ちゃんとしたビジネスモデルがあればそれも変わっていたのかもしれません。

ファッションライターは取材したり、書いたりすることに加えて、ファッションの当事者として実践することも必要だったと思うので、その違いもあるかもですね。
それはあるかもしれません。ただ、ジャズや後にクラブジャズと呼ばれるようになったシーンの人たちは違っていて、須永辰雄さんや橋本徹さん、UFOの矢部直さん、そしてPIZZICATO FIVEの小西康陽さんなど、音楽とファッションの距離が近い人がいました。僕は彼らとも交流がありましたが、僕はニューウェイブ以降のギターバンドやインディ出身で、そのなかで「音楽とファッションをつなげたい」という気持ちが強かったです。それは今も一緒です。……ただ、やっぱりこういう昔話は楽しいんですけど、カルチャーを生み出すことにはつながらないと思うんですよね。

お話を聞いていて、仲さんの根底にはカルチャーを生み出していくという意識を感じます。仲さんにとって「カルチャー」とはどういうものなのでしょうか?
やっぱり「新しいもの」です。既存に対するカウンターであり、さらによくするための試みこそが、「カルチャー」だと考えています。それは音楽やファッションだけでなく、アートや電化製品、医療で何でも、あらゆる分野に共通することだと思います。
だからこそ、昔話ばかりをしていてもカルチャーにはつながらないと。
若者に「昔はよかった」と語っても、今の子が素直な人たちが多いから興味深そうに聞いてくれるんですよ。でも結局は「すごいですね」で終わってしまうことがほとんど。そこからは何も生まれないと思うんです。そういう意味でも、上の世代が若者たちに適切にカルチャーを伝えてこなかったという功罪は大きいと思います。
どういうことですか?
2000年代後半から2010年代にかけて、僕を含めた年上の世代がカルチャーを伝えることに対して少し臆病になってしまったという実感があるんです。その結果、若者が憧れる対象でなくなってしまい、影響を受けなくなった。今の20代のファッションの価値観は、僕らの世代とはまったく違いますしね。
僕らはパリコレから始まってストリートに流れていく流れを経験したけれど、今の若い世代はそこを通っていないから。でも彼らのファッションが間違っているわけではなく、それが今のファッション。ただ、カルチャーについては知らないだけなんじゃないかと思います。

なるほど。2010年代以降、SNSの時代になると雑誌の時代だった90年代とは情報量も桁違いですよね。
一般の人たちの意見が強くなって、90年代のようにセンスのある人の声以外も簡単に目に触れるようになった。でもそこも功罪で、SNSのおかげで店はすごくやりやすくなりましたよ。リスナーから見つけてくれて、「いいな」と思ってくれる。なぜうちが偏った商売なのに、こんな場所でやっていけるかというとSNSのおかげ。SNSがなかったら無理だったと思います。逆に言えば、今は偏ったほうがいい時代なんだと思います。
音楽が語る、ファッションと美意識の感覚
仲さんが買い付けする作品を選ぶ基準を教えてください。
これは過去のインタビューでもよく言ってきたんですが、そこは本当にバンド名とルックスなんです。音を聴く前に、そこで判断することが多い。でもこれ、全然記事にしてもらえないんですよ、「またまた〜」みたいな感じで(笑)。
例えばデンマークのコペンハーゲンのバンド、アイスエイジ(Iceage)も音を聴く前に連絡しました。絶対間違いないってわかるんです。バンド名って、すごく考えて付けるし、Tシャツにしたときの響きやロゴも考えて付けられるはず。
ルックスも、必ずしも美男美女である必要はないけれど、スタイルを持っているかどうかが大事。見せ方を考えているバンドは、音楽に対してもしっかりとしたビジョンを持っていることが多いんです。
それは仲さんの経験則から培われたものですか?
学生時代からジャケ買いをしてきた経験も大きいですね。買い付けもしていたので、音源を聴けない状況で判断しなければならないことも多かった。
輸入盤なんて当時は試聴できないから、1枚試しに買って、2行くらいの情報から判断するしかない。そういうときは、やっぱりバンド名や視覚的な情報が重要になってくるんです。
BIG LOVE RECORDSのロゴを手がけたカリ・ソーンヒル・デウィット(Cali Thornhill DeWitt)との出会いについても教えてください。
カリは2000年代からレーベル「Teenage Teardrops」を運営していて作品を取りたくて直接連絡したことが始まりです。カリはその当時のレーベルでは珍しく、自分でデザインしたTシャツも売ってました。
ウチのスタッフがLAに行ったときに世話になって。その彼女がカリのエキシビジョンをウチでやったんです。そのときは例のオールド・イングリッシュを使用したお手製のスウェットを1万円とかで売ってた。今なら数十万ですね。その際に「これでロゴを作ってほしい」とお願いしました。
それまでもいろいろな人にロゴデザインを依頼したんですが、なかなかしっくりこなくて。カリの作品を見たときに「これだ!」と思った。彼はニルヴァーナ(Nirvana)『In Utero』(1993年)のインナーシートに女装姿で登場している人で、カート・コバーン(Kurt Cobain)とコートニー・ラブ(Courtney Love)との間に生まれたフランシス・ビーン・コバーン(Frances Bean Cobain)のベビーシッターでした。音楽に対する理解が深い人だからこそ、こちらの感覚を自然に共有できたんです。

カリはカニエ・ウェスト(Kanye West)のアルバム『The Life of Pablo』のマーチャンダイズをデザインしたことでも知られていますよね。
カニエ・ウェストが起用したことでカリの存在が一気に広まったんです。急に電話がかかってきたらしいですよ、カニエから。
カリとはどんな部分で共感し合えたかもう少し詳しく聞かせてもらえますか?
音楽が共通言語になっていました。彼はパンクやグランジ出身ですけれど、僕が好きだった90年代のザ・プー・スティックス(The Pooh Sticks)という、まだどこにも評価されていないマイナーなギターバンドも好きだと言ったりするんですよね。お互いの好みは完全に同じではないけれど、感覚的に近いものがある。そこがちょうどいいバランスなんだと思います。ど真ん中で一緒じゃないのがいいんです。
店のロゴを使ったマーチャンダイズを作るうえで、毎年、カリに「今年のカラー」を決めてもらっているんですが、だいたいその1年後くらいにその色が流行るんで面白いです。今年はピンクですね。

BIG LOVEは、いずれ現れる「時代のキーパーソンたち」のために
店のお客さんは今どんな人が多いですか?
いまは95%が海外から来てくれる方です。あらかじめBIG LOVEを目当てに来てくれる方が多くて、アジアから3か月ごとに通う人もいるくらいです。韓国や中国の若者は特にファッション感度が高くて、正直に言うと日本の若者よりもオシャレだと感じることが多い。
彼らはSNSを通じてカルチャーを学んで、それを求めて日本に来ている印象があります。極端な言い方をすると、SNSができるまで、アメリカ人もアジア人もカルチャーをあまり知らなかったと思うんです。僕の目からするとアメリカ人がオシャレになったのも最近の話で、以前はどこに行ってもファッションに無頓着な人が多かった。でもSNSでカルチャーを知って、街にオシャレな人が増えて、レコードブームにもなった。

その結果、日本の若者よりオシャレだと感じる外国人が常連客になっているという。
そこは複雑な心境もありますね。BIG LOVEに来る外国人を見ると、明らかにカルチャーやファッションに感度の高い人たちが多い印象です。カルチャーやファッションに興味がある人が日本という国を選んで来ているところもあると思う。そしてレコードも買う。僕の感覚では、それらに興味がない人は別の国に行ってる気すらします。
BIG LOVE RECORDSの今後のビジョンについて教えてください。
海外から出店の話も多くいただいていますが、店舗を拡大するつもりはありません。この空間をもっと魅力的にすることに集中したい。改装もちょこちょこ続けていて、8月も天井を変える予定です。訪れた人が「ここに来てよかった」と思える場所にしていきます。
またハイブランドからコラボレーションの話もいただいたり、ありがたい状況ではありますが、今は原点に立ち返りインディペンデントなレーベルやアーティストとのコラボアイテムを発表していければと思っています。

若者に向けてのメッセージはありますか?
僕のような上の世代は、あえて前面に出すぎないほうがいいと思っています。と言いつつ出てますけど(笑)。いずれキーパーソンとなる若い人たちが現れるはずなので、その人たちが次の世代に伝えていけばいいんじゃないでしょうか。
日本には、外国人が求めているユースカルチャーがまだあると思うんです。それはアニメやゲームだけでなく、ファッションや目に見えないセンスのようなものに関して、日本人の感覚はすごいと思われている。
でも古典的な日本文化だけでなく、現代の日本発のカルチャーを発信していかないと、他のアジア諸国にここからさらに追い越されてしまうかもしれません。だからBIG LOVE RECORDSは、常に新しいものを発見し、紹介し続ける場所でありたい。昔話ではなく、今この瞬間に生まれているカルチャーを大切にしたいんです。
そして、音楽とファッションが再び密接な関係を築ける場所として、次の世代に何かを伝えていけたらと思っています。若者にとって映えるように、フォトジェニックにして、でも敷居は高く。そうやって若者がカルチャーでビジネスができる環境を作っていきたいですね。
仲真史

レコードショップ/レーベル「BIG LOVE」代表。1993年から渋谷系の代表的なレーベル「ESCALATOR RECORDS」を主宰。2001年、原宿に輸入レコードショップをオープン。2008年、レーベル「BIG LOVE」スタート。2010年にショップも同名に改める。The xx、Iceageなど注目アーティストを発掘している。
Words:Shoichi MIyake
Photos: Mitsuru Nishimura
Edit:Shoichi Yamamoto