私たちは音を聴いている。 イエス。 では、無音は?

無音=音のない状態である「静寂」に置き換えれば、イエスと答える人もいると思う。 禅やマインドフルネスが身近になる現代では「静寂を聴く」ことを実践的に身につけている人も少なくないかもしれない。
これは長年にわたって、人の身体において知覚・哲学・科学の分野で論争が続けられてきたテーマの一つだ。 人は無音を聴覚で捉えているのか、それとも認知的な見解(静寂を判断する、というニュアンス)なのか。

これについての実証的な検証はなく、「人は静寂を聴いている」とは“感じて”・“認知している”、といった解釈におとされてきた。 なので、もっぱら静寂とは心の状態を指し、静寂と人の関係はわりあい哲学問答のようなものだった、のだが。 今夏、科学的に私たちの聴力は無音を捉えている可能性が見つかったという。 ついに長年の論争….終結? とまでは現時点ではいかなさそうだが、PNAS(米国化学アカデミー紀要)* は、研究論文(2023年7月)で「ヒトは無音を聴覚で捉えている可能性がある」と発表。

これまで、無音を含め、人に刺激をもたらすことのない無感覚は“不在(absence)”として扱われてきた。 この不在は人の身体において「ブラックホールのようなもの」とされ、言うなれば扱いきれないものとされてきたのだが、そのうちの一つ、無音は確かに“聴覚でとらえて”いるかもしれない、という。

*米国科学アカデミー紀要 Proxeedings of the National Academy of Science(略称PNAS)は、1914年に創刊された米国科学アカデミー発行の機関紙。 自然科学領域、社会科学、人文学などを対象にしている。 生物化学、医学において注目すべき論文を数多く発表している。

有音と無音を組み合わせたいくつかの検証

同研究では「実際に無音を知覚できるのかどうかを調べる」ために、一連の聴覚的・視覚的錯覚に対する参加者の反応を観察。 7つの検証のうち、2つ紹介したい(一般公開が2つ目までだった)。

1つ目は、被験者は「一つの連続(途切れない)音」と「二つに区切った音」をそれぞれ聴き、どちらが長く聴こえたか、を答えるもの。 実際には2つの音の長さは同じだが、「途切れていない音の方が長く聴こえていると感じた」と回答した。

2つ目は、被験者は「オルガンの連続音」と「エンジンの回転数」の音を同時に聴く。 この時、意図的に突然どちらかだけの音を止め、片方は鳴り続けているなかで部分的な静寂を生じさせた。 片方の音の脱落を5回繰り返す(最初の4回がオルガンの音の脱落、5回目はエンジンの音の脱落)と、5回目(最後の静寂)はその前の4つよりも長く感じたと参加者は回答。

上記を含めたいくつかの観察と検証から導きだされたのは「静寂に基づく錯覚を、音に基づく錯覚と同じように知覚しているのではないか」ということ。  んん、ややこしいが…もう少し簡潔な結論をみていくと「音と静寂の両方を、脳が同様のシステムで処理しているといえる」ということらしい。

無音は人体の“ブラックホール”を解き明かす糸口?

ここで気になるのが、数値化できる音と違い、静寂は人によってだいぶ異なる捉え方になるのでは? という点。 研究にも付け加えられているが「あるヒトは真の静寂を体験しているかもしれないし、また別のヒトは頭の中でなにか音楽を流しているかもしれません」。 静寂は人の数だけ存在する、といえよう。
この結果を受けて、研究機関らは「さらにヒトがほかの感覚の不在(視覚や触覚)をどのように扱っているのかを研究していく」という。 無音を聴いている可能性が導きだされたことは、人と音の関係の話に留まらない。 不在(absence)の一つが知覚されている可能性がある、ということは、人間にとってのブラックホールを解き明かしていく初めての糸口になった、ということなのだから。

Words: HEAPS