中国と日本を往復しモデルとして活動している、る鹿(るか)。近年はシンガーとして坂本慎太郎、山本精一、真島昌利(クロマニヨンズ / THE BLUE HEARTS)らとコラボレーションするなど、耳の肥えた音楽ファンから注目されている存在でもある。

なぜ中国から日本へ。どうして自ら歌うことになったのか。そのルーツと表現を紐解くロングインタビュー。ゆるやかに軽やかに、意思のある言葉で自身の生き方を教えてくれた。

見た夢をきっかけに、日本へ


る鹿さんが来日したのは2015年で、もともとは留学のために来たんですよね。

日本語を勉強するために来て、最初は山梨県に住んでいました。

山梨の日本語学校に通っていたんですか?

そうなんです。日本に来ることになったのはすごく急なことで。元々はフランス語を勉強していたから、フランスに留学しようとしていたんですよ。

どうしてフランスが日本に変わったんですか?

ある日、夢を見て。日本に来たことはないんだけど、日本のアニメはいっぱい観てきたから、自分が思う日本っぽい場所にいる夢だったんですね。目が覚めたら、まだ物足りないほどにリアルで。その日は中国で通っていたフランス語学校の授業があって、一緒に通っている友達に「日本に行ってみたくない?」って電話したんですよ。そしたら「いいよ。学校を辞めにいこう」って言ってくれて。そういう流れになるとは思わなかったから、びっくりしました。

信じられない展開ですね…。日本のアニメはどんな作品が好きですか?

最初に興味が湧いたのは「犬夜叉」と「NANA」です。そのふたつをミックスしたら私になります。

「犬夜叉」+「NANA」=る鹿?

そうそう。ずっと日本に興味を持っていて、夢を見たことは一番背中を押したかもしれないけど、友達があの朝に「いいよ」って言わなかったら、大人しくフランス語学校に通っていたと思います。とりあえず学校の前で友達と合流して、先生に「日本に行くから、残りの授業のお金を返金できますか?」って相談しにいったんですね。先生は「どうしたの?!」って驚いて。それはそうですよね、昨日までは普通に授業を受けていたから。


先生からすれば、学校を辞めるきっかけが思い当たらないですよね。

夢のことを説明したら、先生は呆然としていて。「お母さんを呼んでほしい」という流れになったんです。地元の重慶のフランス語学校に通っていたから、私の親はすぐに来れるけど、友達の親は飛行機で2時間くらいかかる四川で暮らしていてすぐに来れないから、同時に両方の親に電話しました。

ウチの親は「日本に行くって何言ってんの?」って。1年後にフランスに留学するつもりだったから、親にとっては「これまで勉強したフランス語をどうするの?」ってことになりますよね。私は「半年間は日本へ日本語を勉強しに行って、その半年後にフランスに留学すればいいじゃん!」と思っていたけど、親には理解できなくて。

親は文句があるけど止められない。最終的には、どうしても行きたいならば、自分のお金で責任を取って後悔のないように、って認めてくれました。私は美大生だった頃に、アパレルの仕事でお金を貯めていたんですよ。それを使って、日本に行くことになったんですね。

どうして山梨だったんですか。

日本に留学したことのある人を探して、唯一その経験のある友達が山梨県の日本語学校に留学していたんです。その人からは富士山が近い甲府を勧められたけど、全然わからなくて。普通は東京に行くんじゃないかなと思っていたから。

友達はすごくきれいな街、人も優しい、ワインも桃も美味しいとか、山梨のいいところを教えてくれて。一番響いたのは、日本語が何もわからない最初の頃、東京はレベルが高すぎる。勉強するなら静かな山梨県がおすすめっていう話でした。それをきっかけに友達が通っていた日本語学校を紹介してもらって、すごく優しい先生に出会えたんですよ。甲府には3ヶ月住んで、若者は少なかったけど、おじいちゃんとおばあちゃんをすごく見かけたのがよかったし、街の空気は東京よりきれいでした。

その後は東京に?

もともとは甲府に半年住むつもりだったけど、結果的に3ヶ月で東京に引っ越すことになりました。なぜ早まったかというと、「ありがとうございます」、「トイレはどこですか」、「お会計をお願いします」とか、最低限の日常会話ができるようになったタイミングで、友達と東京に遊びに行ってみようっていう話になったんですね。それで高速バスに乗って東京に行ったときにスカウトされました。それと決定的だったのは、上海でモデルをやっている友達が日本の事務所に期間限定で所属して、仕事で日本に来ることになったんですよ。その友達に会いに行ったとき、私の自撮り写真を撮影して友達のSNSに投稿したら、後日、その子から連絡があったんです。モデル事務所のマネージャーからたくさん連絡があって、私を紹介してほしいって。

でも、最初は全部断りました。

どうしてですか?

だって私、日本語を勉強しに来たし、フランスにも行くつもりだったから。全部で3件のお話があって、最初に話した事務所のマネージャーが熱心で、ご飯に誘われたんですよ。日本語を勉強したいなら、東京でも勉強できる。ついでにモデルのバイトができたら、お小遣いも増える。私にデメリットがない説得をされて。しかも昔、ロンドンに住んでいたから英語を流暢に話せる人で。山梨に戻ってからもメールで連絡をくれて、こんなに私のことを思ってくれているし、おもしろそうだなって。一緒に留学した友達も「いいよ、東京にいこう」と言ってくれたんですね。それで「やってみます」と返信して、東京で暮らすマンションも一緒に探してくれて、東京に来ることになったんです。

モデルは役を演じるけど、音楽は素の自分を出せる


モデルの仕事をやっていくなかで、歌手デビューは何がきっかけだったんですか?

音楽のお話があった時期はちょうど私、いろいろ考えていた時期で。中国で映画のオファーが来て、すごく大きな映画のオーディションに参加したんですね。最終段階で、私ともうひとりの女の子のどちらかに決まる感じになったけど、あまりにもしんどすぎるサイコパスな内容の作品だったんです。私は演技のワークショップに通ったことがないから、自分の感情をそのまま出すことしかできないタイプなんだけど、すごく褒められたんですよ。役に入っていくタイプだから、それがすごくいいみたいで。でも、すごく心を削る感じになるから、毎晩のようにホテルでぼろ泣きでした。

オーディションを繰り返していくうちに、精神的にしんどくなって病院に行ったら、先生から一度休んだほうがいいって言われて。結局、メンタルの問題で、もう一人の女の子が選ばれました。私はそれでよかったなと思うけど、いろいろ考えたのは、モデルも役者もすごく楽しいけど、あくまで他人っていう感じなんですね。私はモデルとしてクライアントの要求に応える。仕事によって自分の色が変わるけど、それは全部自分じゃないというか。

あくまでも役を演じているんですね。

そうなんです。でも、歌はすごくシンプルに素の自分を出せて、ありのままの自分をみんなに広げられる。何も考えずにエンジョイして表現できて、すごく自由だなって憧れていたんです。音楽がすごく好きだったけど、音楽をやるきっかけはなかった。でも、仕事を休んでいた時期にマネージャーから電話があって、Cloudyさんっていう音楽プロデューサーが私と話したがっているって教えてくれて。

まさにいいタイミングだなと思って、Cloudyさんと会ってみたら、お互いの好きな音楽の話ですごく盛り上がりました。私が好きな音楽は割と自分の世代じゃないものが多くて、誰も話し合う人がいなかった。ゆらゆら帝国、フィッシュマンズとかが好きって伝えたら、Cloudyさんの目がすごく開いたんですよ。まさに僕も大好きなアーティストだって。そこから正式に歌手の話が進んでいって。

最初にゆらゆら帝国の「空洞です」をカバーしたいと言ったのは自分からですか?

お互いに同じことを思っていたんですよ。Cloudyさんからも私からも提案があるっていう感じでリンクしたの。私は「空洞です」がとてもインパクトがあると思っていたら、Cloudyさんもまさにそう思っていて。しかも、初めてのレコーディングをZAKさんにお願いできるなんて信じられなかったです。

フィッシュマンズを語る上で欠かせないクリエイターですね。

ZAKさんのスタジオでレコーディングしたんですよ。私はモデルを何年もやってきたけど、音楽の世界ではイチから勉強する感じ。わからないところが多くても、ZAKさんがやさしく丁寧に教えてくれて。自分が何回歌って収録するのか自信がなかったんですよ。私以外はプロの人たち、スタジオで座りながら私の歌を聴いて、どう思うのかなってすごく不安でした。でも、ZAKさんが誰にも真似できない純粋な良さがあるから、そのままの感じでいいって言ってくれて、すごく救われました。

る鹿さんの歌い方って脱力感が特徴的というか。そのスタイルはどうやって身につけたんですか?

そんなに意識していないんです。逆にモデルをやっているときの気怠い表情とかは、お腹が空くとすごくマッチするっていうか(笑)。「空洞です」のレコーディングのとき、いろいろなパターンを頑張って歌ってみたんですね。ZAKさんはテイクワンを選んだんですけど、それが無理していない感じと脱力感があったんだと思います。



憧れのアーティストはいますか?

坂本慎太郎さんですね、すごく影響を受けていて。坂本さんはもっと目立とうと思えば目立てるはずの影響力をお持ちなのに、敢えてそうしないようにしているっていうか。世間の評価を気にせず、ただ音楽で遊んでいるようなスタンスが素晴らしいなって。坂本さんにとって音楽は人生の仲間みたいなもので、そうやっておもしろい作品をつくっているのが素敵です。私も同じようにやれたら、楽しさが永遠に色褪せないだろうな。

坂本さんは3rdシングル「体がしびれる 頭がよろこぶ」の作詞を手がけていますよね。

坂本さんのライブを観に行って、終演後にはじめてお会いしました。めっちゃうれしかったけど、あれは黒歴史ですね…。

黒歴史? どういうことですか?

私は初対面の方にもコミュニケーションをとれるんだけど、ライブ中に感動して、めっちゃ泣いたんですよ。そしたら、ご本人を目の前にして何も喋れなくなってしまって、手紙を書いて渡しました。自分でもびっくりして…。

自分の殻を破ったフジロックのステージ

2ndシングルの「遠い声」は真島昌利さん(クロマニヨンズ / THE BLUE HEARTS)による作詞・作曲ですけど、真島さんが詞と曲を提供するのも滅多にないことだと思います。

Cloudyさんも言っていました、すごく珍しいことだって。THE BLUE HEARTSは詳しくなかったけど、調べていくうちに、すごく光栄なことだとわかって。マーシーさんから「遠い声」のデモが届いたとき、びっくりしたんですよ。デモのインパクトがすごすぎて、「これ、私、歌えるのかな…」って不安になるくらいに、私が歌っている音源と全然違うバージョンで。

マーシーさんがギターを弾いて録音したんだけど、ものすごく激しい曲調だったんですね。「マーシーさんしか歌えなくない?」と思うほどにまったく別もので。でも、ギターの石井マサユキさんを中心にアレンジを練ってくれて、私も自分が歌いたい感じを考えて、最終的にはすごく滑らかでフラットな感じになりました。

ライブ映えする曲ですよね。フジロックの苗場食堂でのライブで一番マッチしていると思いました。

ありがとうございます。野外が特に似合うと思うし、夏の思い出として大切な曲です。

「空洞です」と「遠い声」を経て、2024年には「体がしびれる 頭がよろこぶ」をリリースしました。作詞は坂本慎太郎さん、作曲が山本精一さんですね。

山本精一さんは「空洞です」で「Adrenalineバージョン」を提供してくださっていて。坂本さんも山本さんをリスペクトしているんですよね。

岡田拓郎さん、食品まつり a.k.a foodmanさん、7インチ盤では冥丁さんがリミックスを手がけていて。コアな音楽ファンからすれば、すごく贅沢な経験だと思います。

ありがたいです。皆さん、いろいろな多様性があって、すごくおもしろい音楽をやっているなって。

「体がしびれる 頭がよろこぶ」の7インチ盤を含めると4枚のレコードをリリースして、2024年はFUJI ROCK FESTIVAL ’24に出演しました。出演が決まったときの気持ちはどうでしたか?

夢か現実かわからなかったです。私、フェスって行ったことがなかったんですよ。出演したフジロックがはじめてで。フジロックが終わってから1週間ぐらい経っても、「あれは夢だったのかな」って思うくらいの経験でした。普段はあまり緊張しないタイプなんですけど、ステージに上がる前は本当に緊張しちゃって。

フジロックまではライブもそんなにやっていないですよね。

そうですね、自分主催のライブは2回だけでした。フジロックはバックステージに入って、バンドのみんなが楽器を調整しているのを見たら、頭の中が真っ白になっちゃいました。でも、ステージに上がってからは緊張が無くなって。ライブが始まる前、リハーサル的に音出しさせてもらったんですけど、そのときはお客さんがまだ座っていたんですよ。苗場食堂だから、ご飯を食べたりしていて。でも、ライブが始まると若干モシュピットみたいになったというか。人が集まってくる感じを見て、存分にやろうという気持ちになりました。不思議なんだけど、逆にたくさんの人を目の前にしたら緊張が無くなったんですよね。あとはバンドのメンバーたちがフォローしてくれたのも大きいです。不安なときは後ろを向いて確認する。それで大丈夫って安心できて。



セットリストを見ると、自分が聴いてきた音楽にリスペクトを込めて自分の表現もやるというか。シングル3曲に加えて、フィッシュマンズの「Go Go Round This World!」のカバー、王菲(Faye Wong)の「夢中人」のカバー、「空洞です」の中国語バージョンとか、自分のアイデンティティやルーツに正直な人だなと思いました。

セットリストは悩みました。若い世代に響く曲とかも、フジロックだから大勢の人に届けられるんじゃないかなっていうアドバイスもあったけど、自分が好きな曲を選んで。

フジロックを経て、もっと人前に出て歌いたい、新しい歌を届けたい気持ちが強くなったんじゃないかなって。

すごく強くなりました。あの45分くらいのステージはいままでライブをやってきて、一番楽しんだ時間でした。ライブの途中から自分の中に引かれていた線を超えた気がします。自分の殻を破った感じがあるし、自分自身がすごく気持ちよく楽しんでいて、その場で生まれた無意識的な動きも多かったです。

降りてきた意思を死ぬまで実現していく


いままでもたくさんのライブのオファーがあったはずだし、台湾と日本を行き来する活動の中で断ることもあったんじゃないかなと思うんですね。ライブをやりたい気持ちとタイミングがマッチしないことは実際にはどうでしたか。

すごくありますよ。私は外国人だから、日本でライブをやるためにはビザが必要で。そこが一番難しいかもしれない。かなり先のスケジュールを計画的に決めないといけなくて。逆に台湾での活動はすごく柔軟なので、日本でつくった音楽を台湾で表現することが今後の楽しみです。私の好きな台湾のアーティストともコラボレーションして、一緒に作品をつくりたいですね。

る鹿さんはすべての作品をレコードで発表しているけど、レコードへの特別な気持ちはありますか?

いまの世の中はすごく簡単にいろいろな音楽をサブスクリプトできますよね。レコードは流行っているけど、ずっと形に残るものとしてその重要性があると思うし、音楽好きな人たちはその特別感をずっと大事にしてくれると思っていて。

新しいレコードも古いレコードもあるじゃないですか。る鹿さんは古いもののほうが好き?

私が持っているのは大体、中古のレコードですね。古着も好きなんです。古いものにはサプライズ感があるっていうか、新しいものは数も結構あってサプライズ感がない。中古のレコードもカメラも洋服もそうだけど、何が見つけられるんだろうってワクワクする感じがとても大切で。だから、古いもののほうが自分には響くんですね。人間と同じで年齢を重ねている感じがするから、それも含めてすごくいいなって。

自分がつくったものもそうなっていくといいですね。

そうですね。これから何十年後とか、私のレコードを大切に持ってくれている人がいたら、すごくうれしい。アルバム、早く出したいですね。最近、キーボードを弾き始めて、歌詞も書き始めてみたんですよ。まだ世に出せるものではないけど、楽しくやることが一番。坂本さんから学んだように、私もいろいろつくってみたいです。

来日のエピソードを含めて、る鹿さんは直感的に閃いた何かを形にすることをすごく大切にしているというか。そのときの自分の気持ちにすごく素直ですよね。

こんなに良い意思が降りてきたんだから、実現しないともったいないなって思っちゃうんです。たぶん、私は死ぬまでそうだと思います。人生の中でやってみたいと思ったら、やろうよっていう感じ。やらないと何も生まれないし、わからないことばかりじゃないですか。一生、この考え方で生きていきたい。


る鹿

る鹿

中国出身。2015年に留学のため来日。友人がSNSにアップした1枚の写真をきっかけにスカウトされモデルとしてのキャリアをスタート。ファッション雑誌でモデルとして活動する傍ら、サカナクション「多分、風。」 や、indigo la end「チューリップ」などのMVに出演し人気を集める。2021年にはビクターエンタテイメントより歌手デビュー。3枚のシングル「空洞です」「遠い声」「体がしびれる 頭がよろこぶ」を発表し、坂本慎太郎、山本精一、真島昌利、岡田拓郎、食品まつり a.k.a foodman、冥丁とコラボレーション。また、仕事と子育てに奮闘している。
Instagram
Luuna Management

Words & Edit:Shota Kato(OVER THE MOUTAIN)
Photos:Takuya Nagamine

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