「音楽とウェルビーイング」と聞いた時、あなたは何を思い浮かべるだろうか? ヒーリングミュージックにアンビエント、あるいはバラード曲? それともクラシック音楽? そういった「穏やかな」ジャンルの音楽を連想する方は多いかもしれないが、実は全く異なるジャンルの音楽からウェルビーイングを考えることもできる。

今回、お話を伺ったのはライター/ラジオパーソナリティの武田砂鉄さん。 鋭い視点の論評で知られる武田さんは、「メタルは人を救う!」とまで公言するほどのメタル好きでもある。 ウェルビーイングとは一見縁のなさそうな音楽だからこそ、一歩俯瞰した目線での興味深い意見が次々と出てくることに。 武田さんの柔軟な発想に触れ、凝り固まった思考がほぐされていくような心地よさを感じてほしい。

「音楽が自分に合わせてくれる」のではなく、「自分が音楽に合わせていく」というスタンスが大切

武田さんは、「音楽とウェルビーイング」といった時にまずどういったことを思い浮かべますか?

武田:ウェルビーイングという言葉自体については、実はちょっと懐疑的なんです。 「気持ちが沈んだ時に聴く曲」とか「聴くと涙がこぼれるバラード」とか、それはそれであっていいと思うんですけど、なんだか聴く側の傲慢さを感じてしまうんです。 自分は仕事をする時にはずっとメタルを聴いているので、メタルはどんな時もどんな気持ちにも対応してくれているという感覚があります。 怒りも楽しさも哀しさも癒しも、全てある。 気持ちに合わせて音楽を選ぶというよりも、メタルという音楽の濁流の中に自分もいて、全ての気持ちとともに日々生きているという感覚。 サブスクのせいもあると思いますが、今の時代、自分が真ん中にいて、押し寄せる大量の音楽から今日の自分の気分に合わせて選ぶ、と考えがちですよね。 安らごうと思って音楽を探すけど、「こんなのじゃ安らげない」とか「なんか違うな」と、また違う音楽を選ぶ。 そうではなくて、音楽の方に自分を合わせていくことが必要なんじゃないでしょうか。 音楽って、まず、音楽を作った人がいるわけです。 自分に寄せ付けるのではなく、あちらにお邪魔する感覚があります。 懐古主義だと言われるかもしれないけど、だから自分は未だに音楽はCDで聴いているんです。

「メタルという音楽の濁流の中に自分もいる」というのは良いですね。 その中で、音楽の方へ自分を合わせにいくんだと。

武田:昔、限られたお小遣いでCDを購入していた時、自分が買ったアルバムを何とか肯定したいという気持ちがありました。 買ってみたら、あまりいいアルバムじゃなかったけど、でもこの6曲目のギターソロだけはいい!と肯定していく。 当時から、音楽はまず作ってくれた人のもの、という意識があります。 そういえば最近、SNSでもギターソロ不要論なんて言われていますよね。 傲慢の極みです。 そこにギターソロがあるなら、それを堪能しにいくスタンスでいきたいです。

そういうタイパ的なスタンスが出てくること自体が非ウェルビーイングということですよね。 武田さんは、CDで聴かれる時にはスキップはされないんですか?

武田:基本的にはしないです。 丸々アルバムを聴くことが多い。 以前会社勤めをしていた頃、たとえば、8:50発の電車に乗るとなれば、家を出るまでにどの曲・アルバムを聴けば、ちょうどその時間に合わせられるかを逆算する、なんてことをよくしていました。 でも終わらない時もあって、そういう時は電車一本遅らせていたんですよ。 音楽評論家の伊藤政則さんに話を聞いた時に、かつて、PINK FLOYD(ピンク・フロイド)の「原子心母」をフルでかけて番組がちょうど終わるように時間調整していた、なんて言っていました。 そういうの、大事だと思うんです。

いつメタルにハマり、どのように深めていったのか

いつメタルにハマり、どのように深めていったのか

そもそも、武田さんが意識的にメタルを聴き始めたのはいつ頃なのでしょうか。

武田:自分は1982年生まれで、中学生になって、まずB’zが好きになります。 松本孝弘さんがTOKYO FMで『BEAT ZONE』という、そんなにおもしろくないラジオをされていた(笑)。 「エンジニアの〇〇さんがお越しくださいました、今回のレコーディングは大変だったよね……」みたいな感じでなかなか地味な番組だった。 そのラジオで、松本さんが仲間と作った『Rock’n Roll Standard Club』という、ロックの名曲をカヴァーした作品が何曲もかかったんですが、そこでWHITESNAKE(ホワイトスネイク)やGary Moore(ゲイリー・ムーア)、DEEP PURPLE(ディープ・パープル)などを知ったんです。 同時期に伊藤政則さんのラジオも聴くようになっていたので、そこからメタルにどんどんハマっていきました。

B’z経由は、日本のメタル好きには多いケースですよね。 武田さんはメタルのサブジャンルについてもかなり聴かれていますが、その後のメタルの細分化についてはどのように追っていったのでしょうか。

武田:『BURRN!』や『炎』がある程度細かいサブジャンルまでカバーしていたので、そういった雑誌で勉強していきました。 同時に古本屋でバックナンバーも買い揃えていきました。 YouTubeもサブスクもないですから、手元にある音源を聴いて、雑誌を読んで、断片的な知識を繋げていったと思います。 それが楽しかったんです。 当時のライナーノーツは、今のようなバイオグラフィに寄ったものではなく、もっと書き手の特性と思想が出ていたのでそれを読むのも楽しみでした。 『BURRN!』の真似事をして、買ったCDの点数を自分なりにつけてノートに記録していく、なんてこともやっていました。 誰に見せるわけでもなく。

採点、私もやっていました。 メタラーの誰もが通る道ですよね(笑)。 当時、世間の評価と自分の評価でズレを感じていた作品はありましたか?

武田:1990年代後半というのはメタルにとってはかなり厳しい時代でしたよね。 グランジブーム以降は、大物バンドたちも迷っていて、IRON MAIDEN(アイアン・メイデン)やJUDAS PRIEST(ジューダス・プリースト)はヴォーカルが代わったし、METALLICA(メタリカ)もMötley Crüe(モトリー・クルー)も作風を変えていた。 でも例えばJUDAS PRIESTが来日したら、自分は今そこに彼らがいることの重要性を大切にしたいと思って全力で聴いていました。 批判されがちだった『JUGULATOR』というアルバムにしても、「この作品のココがいいんだよ!」とわざわざ言ったりして。 確かに、今振り返ったら完成度としては劣るアルバムだと思うんですけどね。 当時から「なぜこの作品が生まれたんだろう」という意味を考えるようにはしていました。 伊藤政則さんは作品について積極的に捉えようというスタンスがあったので、そういった影響もあるのかもしれません。 大勢が否定していても、自分なりの聴き方ができればいいはずですし。

逆に、武田さんよりも下の世代に支持を得ているメタルバンドも出てきていると思います。 正直、中には積極的に評価しづらいものもあるのではないでしょうか。

武田:だからこそ、分からないからといって苦言を呈さないようにしたいです。 今年の春に開催されたKNOTFESTとLOUD PARKが象徴的でした。 両方行きましたが、前者は、血気盛んな若いお客さんがひしめき合っていた。 正直、中には、自分には良さが分からないバンドもいました。 後者はVIPゾーンが広めに用意されていて、比較的ゆったりと快適にライブを楽しめる。 でもLOUD PARKは、観ていて「この先に何があるんだろうか」という気持ちにもなりました。 「Always Listening」はオーディオテクニカが運営するメディアで、LOUD PARKをずっとスポンサードしていたはずなので、メタルファンを代表して感謝申し上げたいですが(笑)。 特に日本だと、リスナー層が上と下の世代で断絶している感じがありますね。

メタルを通した他者とのウェルビーイング的な関係性の築き方

メタルを通した他者とのウェルビーイング的な関係性の築き方

伺っていると、武田さんは非常に正統派で勉強熱心な、メタラーの鑑としてのリスナー生活を送ってきているように思います。 でも、一部のそういった方たちによくある、他人に自分の価値観を無理やり押し付けたりすることがないですよね。 価値観が凝り固まってない。 そういった点は、メタルを通した他者とのウェルビーイングな関係性の築き方を感じます。

武田:それはやっぱり、濃いメタラーの人たちの、首を傾げるような言動を見てきたからかもしれません。 どのジャンルにもあるんでしょうけど、マウンティング行為に対しては反面教師として捉えています。 ライブに行くと、「俺は1989年の代々木オリンピック・プール見てるけどね」と語る人が近くの席にいて、「それ、わざわざ大声で言うなよ」ってなるじゃないですか(苦笑)。 Ozzy Osbourne(オジー・オズボーン)はOzzfestを開催したり、METALLICAもどんどん新しいバンドを引っ張りあげたり、プレイヤー側はそうやって新しいエキスとぶつかりながら進化してきた。 でも、一部の日本のメタルリスナーはそれを拒むような空気がありました。 今度Bring Me the Horizon(ブリング・ミー・ザ・ホライズン)が新たなフェス「NEX_FEST」を開催しますけど、いわゆる日本のメタル界の文脈だとついていけない人たちがいっぱいいるわけじゃないですか。 「誰なのこの人たちは?」って。

「NEX_FEST」や「leave them all behind」は、今のメタルをいかに文脈化してショーケースするかという点で非常に意義あるラインナップだし、かなりテンションが上がりましたけどね。

武田:そうですよね。 でも「NEX_FEST」はMötley Crüe×Def Leppard(デフ・レパード)のライブと同じ日で、自分はそちらに行って、何度目かの「これが最後の来日かも?」を見届けてきます。 そこで両ライブの客層がかぶらないというのもどうなんだろうという感じですよね。 本当はもっと、「えー、日程かぶってんじゃん!」と嘆く声が出てもいい。

ドゥームメタルの暗さは「トンネルを抜けなくてもいい」ことを肯定してくれる

ドゥームメタルの暗さは「トンネルを抜けなくてもいい」ことを肯定してくれる

これまで多くのメタルを聴かれてきた中で、武田さんが最も愛聴しているサブジャンルやバンドを教えてください。

武田:Cathedral(カテドラル)です。 ドゥームメタルが大好きなんですよ。 2013年に解散したんですが、中学生の時から大好き。 高校生の時に、渋谷O-EASTで前座にORANGE GOBLIN(オレンジ・ゴブリン)を迎えたライブがあったんですよね。 僕はそのライブに行く予定だったんだけど、前日に部活のバレーで複雑骨折してしまい行けなくなったんです。 本当に悔しくて、代わりに兄にチケットを譲ったんだけど、「まぁまぁだった」という感想で本当にイラっときた。 それ以来、募る思いがあって、来日する度にライブには必ず行きました。 CathedralのLee Dorrian(リー・ドリアン)は「Rise Above Records(ライズ・アバヴ)」というレーベルをやっていて、日本ではビクターから色んなバンドがリリースされていました。 いわゆるBlack Sabbath(ブラック・サバス)からの系譜にある、重く沈むようなグルーヴを出すメタルですね。 ドゥームメタルを聴くようになりましたし、TOOL(トゥール)やDEFTONES(デフトーンズ)といったバンドにも興味が湧くようになりました。

ドゥームメタルは気持ちが整ってくるようなムードがありますし、はからずもウェルビーイングなジャンルだと思います。

武田:そうですね。 この社会、ポジティブになろうよ、という圧があるじゃないですか。 でも、ポジティブになろうと焦るからこそ、ネガティブになってしまう。 だから、ベースがネガティブであればいいんですよ。 僕は、とある雑誌で「普段聴かない音楽のライブを観に行く」という連載をやっていて、「明日は晴れる、止まない雨はない」みたいな歌ばかりのライブにも行くんですが、本当にポジティブすぎてしんどい。 そういう音楽は大衆に受け入れられている。 好きな方にとっては実に心地よいんでしょうけど、そこからこぼれてしまった時には、相当しんどいでしょう。 「トンネルの先には光がある」と信じてやっていくこと自体はいいかもしれないけど、「ずっとトンネルなんだ」ということを認められた方が楽になるんじゃないですかね。 ドゥームを聴いていたら、そういった気持ちを肯定できるんです。

ちなみに私はメタルで最も好きなのはストーナーで、とにかくKYUSS(カイアス)が大好きなんですけど、ドゥームと隣接するジャンルなのでその考えはちょっと分かる気がします。 でもドゥームの方がさらに暗い。 その暗さが良いということですよね。

武田:そうです。 その暗さが土台としてあることで安定するし、自分の支えになる。 Black Sabbathが『Black Sabbath』で三つのリフによって作り上げたあの怪奇な世界、あの三つだけで沈んだ気持ちを表現してしまうというのは本当にすごいですよ。

なぜメタル好きには真面目な人が多いのか? なぜ幸福度の高い北欧でメタルが盛んなのか?

なぜ幸福度の高い北欧でメタルが盛んなのか?

「メタルとウェルビーイング」というテーマだと、安直な発想かもしれないですが「聴いていてスカッとする、カタルシスを感じる」というストレス解消的な捉え方もあるかと思います。 ウェルビーイングというよりも、もう少し瞬間的な幸せに近いかもしれないですが。 そのあたりについてはいかがでしょうか?

武田:自分はあまりスカッとするようなメタルの聴き方はしていないかもしれないです。 原稿を書いている時や本を読んでいる時に聴くことが多いですし。 ストレス解消というか、常に行動と共にあるので、ストレスと同居している感じさえあります。

一般的には、どうなんでしょう。 メタル好きにも色々な方がいますが、スカッとした快楽を求めて聴いている人たちはある程度多い印象です。

武田:実際は多いんでしょうね。 よく、メタルのリスナーってとても大人しくて真面目そうな人が多いって言うじゃないですか。 上司に仕事を頼まれたら、断れずに残業しちゃうっていう人たち、というか。 そういった方々はライブ前はすごく大人しくて、始まるとようやく弾けて、終わるとすぐに切り替えて静かに帰っていくんです。 メタルフェスってゴミ箱が綺麗。 なぜかというと、朝から晩までステージを真面目に全部観る。 ご飯も急いで食べています。 他のフェスにいくと、ライブを観てない人が多くてびっくりします。

それはすごく感じます。 メタルファンの方たちって本当に真面目ですよね。

武田:カナダのバンド・Anvil(アンヴィル)を描いた映画『アンヴィル!夢を諦めきれない男たち』が話題になったじゃないですか。 あの映画のラストシーンは、日本の「LOUDPARK 2006」に出るシーンです。 Anvil自身は、日本ではもうあまり人気がないはず、朝一番のステージだからガラガラだろう……と思ったのに、人がたくさんいてメンバーが喜んだという展開。 でも、あれって、メンバーは誤解しているんです。 Anvilじゃなくても日本人のメタルファンはわりと朝から観るんです。 自分もそんな感じで彼らを観ていました。

カルチャーが先か音楽が先かというところも違いとしてあるんでしょうね。 メタルはあくまで音楽であって、実生活との繋がりよりもファンタジーを重視するような気がします。

武田:そうですよね。

「ウェルビーイングとメタル」という観点でもう一つ気になるのが、幸福度が高いというデータが出ているフィンランドをはじめとした北欧においてメタルが盛んであるという事実です。 これは非常に興味深いですが、何かそこに武田さんなりの考察はありますか?

武田:ある北欧のデスメタルバンドのインタビューで読んだのは、ずっと寒くて娯楽があまりないので地下室にこもってデスメタルを始めたと。 フォーリンラブのバービーさんと話した時に言っていたんですが、彼女は北海道の栗山町の出身で、大学で哲学を専攻したのは、北の広大な大地で過ごして、「雪……空……私……、誰?」みたいな抽象概念が浮上したことがきっかけだったそうです(笑)。 そういう環境だと、メタルが合うのかもしれないですね。

ありがとうございます。 今日は、効率的・機能的な観点に走りがちな現代において、ウェルビーイング観点から色々なお話を伺うことができて良かったです。

武田:改めてですけど、「音楽を取り入れる」とか「付き合う」なんて表現が気になっちゃうんです。 「絵画を取り入れる」「映画と付き合う」なんて言わないわけで、我々はどこか音楽を気軽に摂取しやすいものとして捉えているところがある。 「絵画を観に行く」「映画を観に行く」のと同じように音楽も「聴きに行く」という態度が必要だと思います。 いかに距離を近づけるかが音楽業界にとってはビジネスになっているんでしょうけど、もっと遠くにいて、そこにわざわざ近づいていくような距離感があっても良いんじゃないでしょうか。 自分の方から音楽に寄っていく態度を忘れないようにしたいと思っています。

武田砂鉄

1982年生まれ。 ライター。 東京都出身。 大学卒業後、出版社で主に時事問題・ノンフィクション本の編集に携わり、2014年秋よりフリーへ。 インタビュー・書籍構成も手掛ける。 2015年9月、『紋切型社会』(朝日出版社)で「第25回 Bunkamuraドゥマゴ文学賞」を受賞。 近刊に『父ではありませんが 第三者として考える』(‎集英社)。

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Interview & Text:Tsuyachan
Photography:Kentaro Oshio
Coordination:Yuki Tamai
Edit:Takahiro Fujikawa