現在、秋田県仙北市の地域おこし協力隊として従事し、田沢湖近くで暮らすアーティストのstarRo(溝口真矢)氏による連載第二回。 あまねくストレスの種と考えられそうないくつかの普遍的なテーマをお題に、starRo氏の現在の暮らしやバックグラウンド、追憶を交えながら「ウェルネス」の本質を考える、担当編集者との往復書簡を展開する。 癒しと平穏をもたらしてくれるのは徹頭徹尾、(音などが作り出す場を含む)環境と実のあるリアルな言葉であるという仮説の元で。 第二回目のテーマは「自立/自律」。

Theme.02:自立/自律
共助と自立の両立をどう築くか。

Question:

※以下の問いに関する内容は関西学院大学文学部教授、浜野研三氏の論文「自立と依存:「自立した個人」の虚実」の内容を参考にしています。

コロナ禍の前後、「不確実性」という言葉が改めて持ち出されるようになってから、自立あるいは自律分散、噛み砕いた言い方をすると「全員が主役にならなければならない」といった社会的方針、メッセージが目立つようになりました。 その大抵は、いわゆる企業の組織論の中で持ち出される傾向にあり、自由や放任、または公正を謳っているようで、実際は競争力を上げる(=個々人で売上を立て、上げる)ためのように映ります。

そもそも組織にいながら自立を推進することに半ば矛盾を感じざるを得ず、そうすることで関係性が希薄になるのと同時に、個も失われていくのではないかとも感じてしまいます。

確かに、何が起きるか予測ができない世の中で自立を目指すのは正しいかもしません。 ただ極論ではありますが、社会生活を送っている限り、闇雲に他者依存をやめることも当然できない。 その狭間でもがいている人は少なからずいるだろうと考えられます。

上記論文ではアネット・ベイヤーやエヴァ・フェダー・キテイといった「ケア」に関する理論家の話を例に挙げ、基本的な事実として特に「傷つきやすい身体を持つ動物である人間」は、他者の「存在を前提としている」と言います。 さらには、人の「自然な住処」は他の人との間である、とも。 では、本来的な自立は、というと、「人種、性、年令、宗教、能力、を越えて」援助し合い、(概念的な)外に出ることを促し、「したいと思っている様々なことに余った時間を振り向けることの方」が重要だとしています。 つまり、共助なくして自立なし、ということ。

starRo氏の畑。
starRo氏の畑。
「最近はスーパーに行くのも面倒なので、採れた野菜を食べて暮らしている」とのこと。
「最近はスーパーに行くのも面倒なので、採れた野菜を食べて暮らしている」とのこと。

starRoさんの秋田での新しい暮らしを(羨ましい気持ちを抱きつつ)横目で見ていると、そこを拠点とし、地域の風土を満喫しながらも都会でDJをするなど行き来を積極的にしていて、まさに縛りのない自立した動き方をしている。 けれども、秋田での畑作業の際は地元のおじいさんの手ほどきを受けながら、じっくりと健康的に野菜を育てている。 まさに自立と共存を溶かし合いながら暮らしていらっしゃる印象です。 そういった人間関係は、どう構築(と記すと、もしかしたら正しい方法があるような誤解を生むかもしれませんが……)していったのでしょうか?

Answer from starRo:

「より不便な環境に身を置くと、周りの環境や人々と助け合って生きていく必然性がより強まります」

自立と共存が融合した人間関係の構築は、もちろん自分もまだ模索中です。
今の時点での僕の気づきをお話ししますと、自立と共存の前提にはまず、自立をしながらもそれを支えてくれる周りの環境や大事な人々の存在を心から認めるということがあると思っています
都会だけで生きていた時は、時として自分の損得勘定に沿わない周りの環境や人々の存在をまるでなかったかのようにしてしまうことがありました。
でもより不便な環境に身を置くと、周りの環境や人々と助け合って生きていく必然性がより強まります。
でも都会だったらそれが要らないのではなく、利便性をクッションに共存の必然性の存在を感じていないというだけのことです。

では、共存は存在するのに、それをあまり意識していない状態とはどういうことでしょうか。
ひとつは、無意識に周りに依存しているということ。 そして、無意識に周りに影響を与えているということです。
自分でやってるつもりでも、自分で選択しているつもりでも、実はその行いや判断を周りに委ねている。 あるいは、知らない間に誰かを傷つけていたり、苦しい思いをさせてしまったりしている。 そういう状態を垂れ流しにしているということですよね。

僕が今の時点で思う、自立と共存の調和状態とは、まず己を把握しているということ、つまり、本当に自力だけでできることの範囲と、自分から自然に出てくる影響力をはっきりと認識するということです。

「自分が呼吸する息でさえ、その自然環境をつくり出すひとつの要素になっている。 それが真の自立と共存の調和した状態だと思います」

現代社会では、道具やテクノロジーの恩恵で、自分の力あるいは性質を超えた影響力を簡単に与えることができます。 例えば、SNSで自分の特定イメージだけを作ったり、自然ではリーチが難しい範囲の人々に情報を拡散できたり。 そういった自力以上の作用を自分の力と混同して生きている人間の集合体が現代社会と言える気がします

僕にも、発言や行動が多くの人に影響を与えてしまう環境に身を置いていたりした時期が一時的にもありましたし、歳をとってきて年下の人たちが黙って気を遣ってくれてしまうことが多くなってきたりしていますが、そういった環境に甘んじると、よりそこに依存的になり、また無意識に与えている影響力の結果に雑になるんですよね。 そうして結果的に本来の自己がなくなって自分が苦しくなり、周りも傷つけっぱなしになってさらに苦しくなる悪循環に陥ります。
自分が体験した重く長い鬱状態は、まさにその悪循環から由来していました。

そこで、自立した本来の己の力に対する認識を得るために、ひとりだけである程度過ごしたり、自力だけで何ができるかを色々試したりして、自分のキャパシティの限界とポテンシャルを知ると同時に、自分から発した全ての現象がよりピュアに自分に返ってくる体験をする必要もあるでしょう。
そうして己を把握してはじめて、周りの環境や人々からの影響や恩恵、つまり共存の存在をはっきりと認識し、感謝できるようになると思います。

しかし、自立と共存の調和の中に存在する自分を認識できたとしても、いざ生活の中でそれを実践するとなると「自分のため」と「みんなのため」を同時に頭で考えて行動することは人間の構造上、非常に難しいものです。
そこで、僕らが「自分」あるいは「みんな」と捉える概念を超越した、「自分」や「みんな」よりももっと大きな存在の認識が必要になってきたりします。 宗教における「神」の存在とは、まさに「自分」や「みんな」を超越する第三者的存在であり、自分のためでも、みんなのためでもなく、「神」のような存在のために生きることによって結果的に自分のためにもみんなのためにもなっている、という方法論のようにも思えます。

滝行するstarRo氏。

日本においては古くから、日本列島全体を支える大自然が、宗教における「神」的な存在として捉えられてきました。 自然環境が与えてくれる恵みと脅威は、自分のおかげでも、誰か他人のおかげでもありません。 そういった人間を超えた存在から「自分」にも「みんな」にも無差別に降りかかる自然現象を目の当たりにすればするほど、自分とみんなの境界線がなくなっていきます。 それでいて、自分が呼吸する息でさえ、その自然環境をつくり出すひとつの要素になっている。 それが真の自立と共存の調和した状態だと思います

僕が秋田県で体験している生活は、人類全体を動かす自然の力の中で、自分が生きている毎秒が全体に何らかの影響を及ぼし、自分もそれで生かされているという認識をもたらし、そこから自然に生まれる自立と共存の調和の形を教えてくれている感じがします。

starRo

溝口真矢

starRo(溝口真矢)

神奈川県横浜市出身のアーティストでありDJ。 大学卒業後、テック企業に勤め、31歳の時にLAに移住。 SoundCloud黎明期に音楽制作活動を本格化させ、アップしたトラックが注目される。 2013年、Ta-Ku(ター・クー)やLAKIM(ラキム)、Tom Misch(トム・ミッシュ)などがリリースしたこともあるレーベル、Soulectionに加入し、2016年にはThe Silver Lake Chorus(ザ・シルバー・レイク・コーラス)の楽曲「Heavy Star Movin’」のリミックスを手掛け、グラミー賞 最優秀リミックス・レコーディング部門にノミネートされる。 コロナ禍を機に日本に戻り、しばらくは東京やその近郊で暮らしていたが、仙北市にある田沢湖の湖畔でDJをしたのをきっかけに現地の人と繋がり、2023年、地域おこし協力隊(リトリート担当)に任命された。 温泉あがりにアンビエントを流すサウンドバスやフィールドレコーディング体験、音浴とヨガを掛け合わせた企画を立てるなど、仙北市の人びとと深く関わりつつある。

Instagram
SoundCloud

Text(Answer):starRo(Shinya Mizoguchi)
Edit:Yusuke Osumi(WATARIGARASU)
Top Image:AI