高輪ゲートウェイ駅前の施設群、TAKANAWA GATEWAY CITYと呼ばれるこの一帯で行われる音楽イベントが、恒例になりつつある。2026年6月26日〜28日に開催された「NU Festival 2026」は、一連のイベントのなかでも特に先鋭的なラインナップを揃えたことで話題を呼んだ。
オーディオテクニカが協賛・機材協力したこのイベントには、 スザンヌ・チアーニ(Suzanne Ciani)、ウィリアム・バシンスキー(William Basinski)といったピュアな電子音楽のビッグネームや、ネイサン・フェイク(Nathan Fake)やトゥ・シェル(Two Shell)、みんなのきもちといったダンスアクトなどがメインステージでパフォーマンスを披露した。そんななか、メインステージとは全く様相の異なる、あるサブステージがひっきりなしにオーディエンスを集めていた。
「OTOJU Sessions」と銘打たれたその空間には上質なカーペットが敷き詰められ、人々は寝そべりながらサラウンド音響に身を委ねる。いわゆるディープリスニングスペースをフェスティバルに持ち込んだ、日本では先進事例とも言えるこのステージ。「何度もこのステージに戻ってきてしまった」という声が多く聞かれたあの魔性の空間を、自らも出演者として参加したDJ Emeraldが振り返る。
唯一無二の音場が生み出した、“聴くこと”に魅入る時間
「善し悪し」「正しさ」だけではなく「心地良い」かどうか。そして、できることなら、自分が想像しうる範疇を超えて、可能な限り遠くのほうに行ってみて、そこからの景色を、ただじっと見つめてみる。
2日間にわたって行われたOTOJU Sessionsは、まさにそんな光景が常に広がっていた空間だった。
アーティストによるライブパフォーマンスと、DJによる選曲、リスニングセッションといったプログラムをキュレーションしたのは、ロサンゼルスの非営利インターネットラジオ局dublabの日本ブランチ、dublab.jp。
会場の四隅、ちょうど膝ほどの高さに佇む黒い物体。華奢な一本足のスタンドの上に、マットな質感の黒い立方体。その上部には、温かみのある木製の逆円錐形のオブジェが、宙に浮かんでいる。これらはTaguchiのスピーカーをオリジナルの筐体に収めたものだ。
そしてオリジナルのロータリーミキサー、オーディオテクニカのターンテーブルをモバイルなセットとして「重箱」のように組み上げたのが、世界でたったひとつのサウンドシステム『OTOJU』だ。その開発には、dublab.jpとともにAlways Listeningも加わっている。
無指向性のスピーカーを駆使したこのシステムが生み出すフラットな音場こそが、この空間の主役である。そうしたOTOJUのコンセプトに合わせて、今回は低ノイズのベルトドライブ式ターンテーブルである『AT-LP7X』に、カートリッジは無垢マイクロリニア針を採用して繊細な再生力と臨場感のある音質を両立した『AT-VM740xML/H』を選んだ。
床にはOshima Prosによる上質でデザイン性の高いカーペットが広がる。カラーフィールド・ペインティングの絵画を丸く切り抜いたような、シンプルかつ美しい模様のカーペットが、ところどころ重なりあっている。ブースの背後に立つ金地のパネルもまた、同社によるものだ。
サラウンド空間でのライブ&DJ
靴を脱ぎ、おもむろにぺたんと座り込んでみる。その瞬間、四隅のスピーカーから流れてくる音をただ「聴く」のとは、明らかに一線を画す変化が訪れる。音につつまれる、囲まれる、といった表現だけでは足りない、それ以上の ”何か” がそこにある。自分の身体が、音の一部になる。あるいは、音の鳴る空間そのものと同質化する。かつて踏み込んだことのない領域が、確かにそこにあった。
最初の選曲家としてブースに入ったのは、OTOJUの特性を誰よりも知るdublab.jpの原雅明だ。
ピアノの音。指が鍵盤を押し込むときに感じる木の硬さ、ハンマーが弦を叩く物理的な振動、そのすべてが生々しく伝わってくる。レコードの溝をなぞる針が、その質感までも拾い上げている。中盤に流れたエレクトロニカ・ジャズの傑作、トリオスク・ミーツ・ヤン・イェリネク(Triosk Meets Jan Jelinek)の『1+3+1』の瑞々しい音の発散に、フロアでは目を閉じて悦びに満ちた表情を浮かべる人々が見られた。
原のラストの曲に導かれて、シンガーソングライターShökaのライブへとバトンが渡される。呼吸の音が混じる浮遊感のあるサウンド、フィールドレコーディングと思われる数々の音の欠片、その上に彼女の透明な歌声が静かに混ざり合う。
ライブの最中、客席の小さな女の子が鳴らしたキャンディの包み紙の音が、音楽にそっと紛れ込んだような響きを帯びたことが、この音場ならではの瞬間だった。
大阪のレコードショップ、Newtone RecordsのバイヤーでもあるAkieは、Shökaのライブの残響、その最後の一音さえも逃さずに拾い上げる見事なDJミックスで自身の世界へと引き込む。
妖しく響き渡るエレクトロニクスの音色から、ピアノをはじめとする鍵盤楽器、鳥の鳴き声や波の音といった環境音まで、ストイックにかつたおやかに織り重ねる。特に、日本のピアニスト・盛岡夕美子によるピアノと水の音で構成された楽曲「銀の船」に、モジュラーシンセの電子音をレイヤードし、刻一刻とその風景を変容させる場面での没入感は圧倒的だった。
続くKeigo Tatsumiのライブパフォーマンスは、聞き覚えのある電車のアナウンス音から幕を開ける。温かみのある控えめなベース音が、次々と姿形を変えて、煙のごとく部屋中に溶けていく。彼の楽曲「us」の演奏には、今にも消えそうなろうそくの灯火を見つめているかのような極限の繊細さと、至福の贅沢な静寂があった。
初日のラストを担った私のDJは、後方が立ち見で埋まるほどの盛況だったKeigo Tatsumiのライブの余韻を引き受けるかたちで、知床半島の流氷のいななきの音(風や波によって押し寄せる流氷が摩擦で軋む音)を小さな音量から再生して、アナ・ロクサーヌ(Ana Roxanne)やフローティング・ポインツ(Floating Points)の新譜のアンビエント曲、20年前に録音した公園の音、ウクライナの子守唄、友人の楽曲、約100年前のベトナムの民族楽器のダン・バウの演奏などをつないでいった。
こういう場だからこそ、曲と曲が重なっているのをいつまでも楽しんでいたくて、夢中になって「OTOJU」のロータリーミキサーのノブを回し続けた。
音が弧を描いて舞い落ちる──2026年に蘇った奇作「六大』をOTOJUで浴びる
2日目は、日本を代表するジャズピアニスト、菊地雅章が遺した唯一無二のエレクトロニックミュージック作品『六大』の特別リスニングセッションから始まった。同作は『地』『水』『火』『風』『空』『識』と合計6作のアルバムから構成される、6時間弱にも及ぶ大作である。にもかかわらず、その音を確かめるために、オーディエンスは絶えずこの部屋に集まってくる。
ときに生々しい電子音が鳴り響く『六大』と向き合う濃密な時間を、敢えて言葉にするなら「音が見える体験」だ。座った体勢から横に寝転んでみると、スピーカーから放たれた音が、弧を描くようにしてゆっくり目の前で舞い落ちていく。音の質感によってその体積が異なるが、それらの音は雫となって、カーペットに染み込んでいくようだった。
リスニングセッションの中盤には、本作のリイシューを手がけた原雅明によるトークセッションも行われた。
本作が制作された時期は、1980年代。当時の日本とニューヨークにおける音楽とアートのシーンの結びつきから『六大』の背景を説きつつ、話題はいま世界中で増えつつあるリスニングスペース=リスニングに特化した場所のあり方へと及ぶ。
日常から離れて、ただ「聴く」ことだけに意識を傾ける──聴く側の心の持ちようによって、音楽そのものに潜んでいた魅力が立ち現れ、いくつもの再発見が生まれる。そのプロセスは、リスニングという行為が秘める大きな可能性を強く感じさせる。
Shhhhhとニック・ラスカム、それぞれのOTOJUの解釈
『六大』のフィナーレ作品『識』を終えて、Shhhhhがブースに入る。
緻密でユーモラスなサウンドコラージュ、濁流のようなギターのフィードバック・ドローン、タヒチの合唱団による多幸感に満ちた歌声。Shhhhhは、会場内の静寂のうえに、幾筋もの黄金の糸を手繰り寄せながら、丁寧に織り上げていく。
時空も国境も歪むグラデーションのなかで、自分の内面へ潜っていく静けさと、自分を縛るものから抜け出していく解放感が、境目なくひとつになる。また、ある曲のはじまりでは、レコード特有の「プツッ、プツッ」という音を耳にする。それは次の音を待つ空白の時間ではなく、それ自体が豊かな「聴く」という行為の一部になっていた。
ラストのニック・ラスカム(Nick Luscombe)の選曲は、アンビエント、ダブ・テクノ、ダウンテンポを中心に、多面的なエレクトロニックミュージックの豊かな表情を見せるものだった。高音域は天井へ向かい、中低音域は耳の真横からやってきて、自分の鼓膜の奥でその輪郭を失っていく。
今回の出演者の中で最もソリッドな音質でありながら、レコードとはまた違うデジタル音源特有の、素粒子のようにきめ細やかな音と、どこまでもクリアな空間の美しさに魅了された。
「善し悪し」という二元論の物差しは、状況や捉え方ひとつで容易に反転してしまう。大事なのは、思考をどちらか一方に固定せず、常に全方位に向けて開かれていることだ。
私たちの耳は左右にあるが、聞こえてくる音は360度の空間として広がっている。さらに言えば、音を感じているのは耳だけではない。皮膚や、身体からも受け取っている。
OTOJUの音空間で音楽に没頭していると、ある瞬間から聴く対象が反転する。音楽を追いかけていたはずなのに、いつしか、自分がどのように音を受け止めているのか、その身体のあり方のほうが鮮明になってくる。
音楽は、ただ耳に届くものではなく、自分という存在を通して初めて立ち上がるものだと気づかされる。だとすれば、ここに必要なのは、音楽に詳しい耳ではなく、ただそこに在る身体だけだ。
何も構えることなく、身を委ねること。
OTOJU Sessionsは、そのための場所として、静かに開かれている。
Photo by So Hasegawa / NU Festival
Words:DJ Emerald
Edit:Kunihiro Miki
Photos:morookamanabu, Junpei Kawahata / NU Festival, So Hasegawa / NU Festival
