1970年代にイングランド出身の音楽家、ブライアン・イーノ(Brian Eno)によって定義されたアンビエントミュージック。 環境音楽やヒーリング音楽、癒やし系音楽、ドローン、チルアウトなどのジャンルに発展し、日本でもこの影響を受けた多くの音楽が生まれました。 今回は、その先駆けとして活躍した吉村弘のアンビエントミュージックについて、音楽家、録音エンジニア、オーディオ評論家の生形三郎さんに解説していただきました。

日本の環境音楽の草分け的存在

以前の記事で、「アンビエントミュージック」をご紹介しました。 その中で、70年代〜80年代の日本の音楽が世界的な再評価を受けているという流れについても触れましたが、その流れの一環として、日本のアンビエントミュージックにもスポットが当たっているようです。

日本のアンビエントミュージックを語る上で欠かすことができないのが、吉村弘(1940〜2003)の存在です。 彼は早稲田大学文学部美術科を卒業後、サウンドデザインやサウンドオブジェ、サウンドパフォーマンスなど、様々な創作活動を展開しました。 美術館や博物館、百貨店やホテルの館内音楽、鉄道の発車サイン音など、公共空間のサウンドデザインを手掛けた一方、美術館や公民館での環境音をテーマとしたワークショップ活動や、国立音楽大学や千葉大学での非常勤講師の歴任など、その活躍は多岐にわたります。

音源のリリース自体は多くはありませんが、空き缶などから作った独自の音具をリリースしたり、それを使ってパフォーマンスを試みたり、音の鳴る美術作品(のようなもの)を作ったり、はたまた映像や写真を交えた作品を手掛けるなど、いわゆる音楽家というよりも、アーティストや思想家とも呼べる存在です。

シンプルな音の構造による独創的な心地よさ

吉村弘の音楽は、何とも心地が良いものです。 それはきっと、その音楽が持つ独特の「親しみやすさ」とも深く関わっているのでしょう。

例えば、以前のアンビエント記事で紹介したブライアン・イーノやハロルド・バッド(Harold Budd)の音楽は、これもまた心地が良いものですが、その世界は、私が身近に感じている世界とはもっともっと遠くにあって、時に乾いていて、とても広大な大地に身を置く人が作曲しているような、そんな印象を受けます。 しかし吉村弘の音楽は、もっと湿潤な環境で、もう少し距離の近い視界というか、凸凹して起伏に富んだ世界に身を置き、そんな大地を見つめてきた人間が作った音楽であるような気がします。 これらはもちろん、もっと別の言葉やイメージにも置き換えられるでしょう。

吉村弘の音楽は、もっと湿潤な環境で、もう少し距離の近い視界というか、凸凹して起伏に富んだ世界に身を置き、そんな大地を見つめてきた人間が作った音楽

また、例えばこの後に紹介する吉村弘の作品を音楽的に分析してみると気づくのですが、コードと呼ばれる和音が一つないしは二つほどしか使われておらず、シンプルなフレーズの繰り返しのみで構成されていたり、大きな場面展開や起伏がなく、常に一つの世界の中に漂うような、ひじょうにシンプルな構造の音楽になっていることも親しみやすさ、聴きやすさの重要な要素でしょう。

加えて、使われている音が古典的なシンセサイザーの音色のみで作られていること、さらには、アナログ録音によってそれがさらに独特の柔らかい質感に仕立て上げられていること、それらすべてが一つとなって、親しみやすく心地の良い音楽を形作っているように感じます。

雲のおじさん

昨年、吉村弘の没後20年を記念する展覧会「吉村 弘 風景の音 音の風景」が神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開かれました。 そこで初めて私は氏の活動の全貌を目の当たりにしたのですが、作品はもちろん、直筆の楽譜や文字、写真などから伝わってくる人柄は、まさにこの音楽そのもののような印象を受けました。

「雲のおじさん」の愛称で親しまれていた吉村弘の音楽は、刻々と姿を変えながら空に浮かぶ雲のように、自然で生き生きとした存在なのです。

吉村弘の音楽は、刻々と姿を変えながら空に浮かぶ雲のように、自然で生き生きとした存在

私はその展覧会の帰り、鎌倉から東京方面に向かう首都高の湾岸線を車で走りながら、氏の音楽を聴いていました。 東京湾の上に広がる、深く鮮やかな青色をした、だだっ広い夏の大空。 光を受けてそこに浮かぶ大きな雲の中から、まるで音楽がこの世界へと湧き上がっているかのようだったことが、とてもとても印象に残っています。

その音楽はどこでいつ聴いても自然で、例えばいまこの原稿を書きながら聴いていても、まるでこの部屋の空気の中から音が生まれてきたかのように聴こえます。

当時から注目が集まっていた、”環境音楽”

私が特に好きなのが『SURROUND』です。 この作品は、1986年に住宅メーカーであるミサワホームの依頼によって作られたものです。 より快適な住環境創造の中にサウンドスケープデザインが取り入れられ、その一環として環境音楽の制作が依頼されたようです。 吉村弘はこの時代の前後に公共施設の館内音楽やサイン音などを数多く手掛けましたが、そういった仕事の数々を鑑みるに、当時、環境音楽と呼ばれるものに対して、いかに世間の注目が集まっていたのかが偲ばれます。

『SURROUND』この作品は、1986年に住宅メーカーであるミサワホームの依頼によって作られたもの

『SURROUND』は、マリンバを思わせるような音色が印象的な「Time after Time」に始まり、大気や雲を思わせるような大きな流れの中に細かな粒のシンセサイザーの動きが詰まった「Surround」、透明感あるエレクトリック・ピアノの音色が心地よい「Something blue」、ミストのようなキメの細やかなシンセ音の滞留が美しい「Time forest」、凛とした空気や水滴を思わせる「Water planet」、生命力の躍動のような瑞々しさの「Green shower」など、この上なく美しい音楽たちが収められています。

全曲通して聴くと、まるで部屋の空気が解されて柔らかくなったような、明るい光で満たされて澄んだような、そんな清々しい気持ちで心がいっぱいに満たされます。 こんなに無垢で美しい音楽には、そうそう出会えるものではないと思います。

ブライアン・イーノの記事でも書いたように、この音楽は、まさにオーディオという技術があるからこそ生まれたもの、また、その魅力が発揮されるものでしょう。 この『SURROUND』のレコードを、一人でも多くの方に聴いて頂きたいです。

Words:Saburo Ubukata