エレクトロニックミュージックの手法を用いながら、「失日本」という独自のテーマを探求し続けてきた音楽家・冥丁。最新作『瑪瑙』の発売記念公演として彼が選んだのは、群馬県前橋市にある三夜沢赤城神社だった。

2026年5月16日、約2000年の歴史を持つ御神域で行われた一夜限りの特別公演「赤城 夜神楽」。日没とともに始まった演奏は、森と空、そして土地に堆積した時間の気配を取り込みながら、観客を静かに深い感覚へと導いていった。

この日限りの貴重な演奏となった当日の模様とともに、近年の作品作りや演奏の軸になっている「自明でありながらも幽微な存在として漂う日本」という視点について、本人の言葉をおり混ぜながらひも解いていこう。

御神域を使った初めての公演

前橋駅から車で約30分。三夜沢町の赤城神社に着くと、少し汗ばむくらいの暖かさだった中心街からぐっと気温が下がり、凛とした空気に変わっていた。篝火(かがりび)が灯された鳥居の前にちらほらと人が集まっている。音楽家の冥丁の最新作『瑪瑙』の発売記念として企画された公演「赤城 夜神楽」に参加する人々だ。

三夜沢赤城神社は、赤城山の南麓に鎮座する古社として知られ、約2000年の歴史を持つとされる。この場所で音楽イベントが開催されるのは2022年以来2度目で、御神域での開催は今回が初めてだという。あらかじめ予告されていたイベントの終演予定時刻は20時すぎ。その時間には、最寄駅の上毛電気鉄道「大胡駅」へのローカルバスの最終便は無くなっているので、参加者は皆それなりの覚悟で来ているはずだ。

冥丁と来場者は、開演前にまず拝殿へと集まり、眞隅田宮司による御祈祷を受ける。その後、境内のなかでも御神域とされる場所の一角を舞台に、日没とともに演奏が始まる。

観客は森の中の少しひらけているエリアに集まり、冥丁は斜面を上がった高台に組まれたステージで演奏を行う。視界の隅々には、いずれも樹齢300年以上というスギやヒノキが広がる。観客は遠くの木々を眺めるようなかたちで、ステージのほうを向く。

「自然と見上げる環境を作りたかった」と語るのは、冥丁に三夜沢赤城神社での企画を提案し、会場の空間設計も担った主催者の渡邉辰吾さん。電気工事企業のソウワ・ディライトで代表取締役CEOを務める彼は、経営の傍ら前橋で地域デザインや文化事業を積極的にサポートしてきた人物でありアーティストとしても知られている。冥丁の活動や思想にもかねてから共感を示しており、渡邉の企画のもと2024年には国の重要文化財・臨江閣(前橋)での演奏、その翌年は赤城山・小沼での特別公演を実現させてきた。

渡邉辰吾 | 株式会社ソウワ・ディライト 代表取締役CEO

神社では祈りの際には皆が頭を下げる。渡邉いわく、その儀礼や身体感覚の延長として、観客が演奏者だけでなく、その背後にある森や空そして気配を感じる視点を意識したという。現代人はスマートフォンを見る時間が増え、とかく目線が下がりがちだ。だからこそ、この場所では森や空、宇宙のような広がりのある空間を感じてもらいたかったのだという。

「三夜沢赤城神社の境内に初めて足を踏み入れた瞬間に、この場所には何か特別な力があると感じました。どうしてもこの地で何かを遺したかった。常に伝承や本質を最優先する三代沢赤城神社に於いて求められた表現や想い。それらは先人、そして全てへの感謝のもとに成り立つものでした。神社の御神域、そこでの演奏を許されるという事がどれほどの事を意味するか。自身の身が引き締まると同時にそれを可能にした冥丁というアーティストへの凄みを感じました。彼の音によって2000年の歴史で初めての景色が生まれると」(渡邉)

歴史ある神域での演奏。そこで響かせる個人史的な音楽

18時44分。日の入りとともに演奏が始まる。夕暮れの光が残るなかで立ち上がった繊細な電子音が、不均一な揺らぎをともなって森に充満していく。音楽が展開していくにつれて、少しずつ時間感覚が弛んでいく。

観客側の森の中には4発の無指向型スピーカーが配置され、ステージ側からのステレオサウンドと空間上で溶け合う

演奏は、新作『瑪瑙』の収録曲を中心に展開された。『瑪瑙』には、新曲に加えて2020年から2023年にかけて発表された『古風』三部作と呼ばれる連作アルバムの楽曲を再構築・拡張した曲も収録されている。

それら初期作を作り始めた当初から、冥丁が掲げている独自のテーマが「失日本」である。「失われつつある日本的感覚を掘り起こす」という意味を込めて使い始めたというが、本人のなかでその解釈は昔と今で大きく変化しているのだという。公演後に行ったインタビューで、冥丁は次のように話してくれた。

冥丁

「昔は失われつつある世界が日本にはあると思っていたんです。でも今は、失われたものではなく、存在しているのに見過ごされているものに目を向けたいと考えています。それは、文化財とよばれるような場所での演奏を何度か体験するなかで見えてきた、自分なりの拠り所のようなものです。そういうものを音楽にする人は、なぜかほとんどいません。でも、そういう音楽があってもいいと思うんです。

たとえば神社や寺院、地域に残る風景について、私たちは見ることもできるし、その歴史を知ることができます。しかし、その場所がどのような感情や祈りから生まれたのか、その場所にどのような時間が堆積しているのかについてはあまり考えない。私はそれを『自明でありながらも幽微な存在』と表現しているのですが、ここでいう「自明」は、誰もが知っていて歴史として記録されているもの。一方で「幽微」とは、歴史そのものではなく、歴史を生み出した感情やその場所にいた人々の思いを指します。

清水寺のご住職と赤城神社の宮司さん、それぞれが同じことをおっしゃっていたのが私にとってとても印象的で、お二人とも『私はずっとここにいるから、この場所がどういう場所なのかよく分からない』と言うんです。まさにそういうものが自明と幽微が同居する状態だと思うんです。

なので、私は音楽史をなぞるような音楽をやるのではなく、自分自身の個人史を起点にするような音楽を作っています」

伝統や歴史の再現ではなく、その場に漂う説明しがたい感覚や印象を音として掬い上げようとする試み。作品の世界観を神社という象徴的な場所へ持ち込むのではなく、その場所と向き合うために音楽が存在する。今回のツアーが赤城神社と和歌山城の2箇所のみとなったことも「その場所で演奏すること自体に意味がある会場を選びたかった」ためだという。

「基本的に公演という場では音楽が主体性を持つものですが、私は以前からそれが気になっていました。徐々に公演を重ねながら、国内外の一般的な音楽文化を背景に持つ公演とは異なる個性を提案してみたいと思い始めました。それは、ある意味で形式化されてしまった音楽公演の在り方に対する私なりの答えでもあります。

『冥丁の公演』という観点に基づくことで、日本という存在について音楽と共に主体性を見出すことが可能になることを最近ようやく理解し始めました。これまでも作曲においては、冥丁の音楽は音楽史や音楽文化の中で独自の道を歩んできましたが、公演活動においては常に手探りの状態が続いていました。ようやく可能性を見出す道を進み始めた実感が湧いています」

「幽微さ」の本質とは?

場所とその漂う記憶の気配に耳を澄ませるような音楽を目指す。では、その思想は音楽の作り方そのものにどう反映されているのだろうか。また、DTMを主体にサンプリングも駆使するいわゆるエレクトロニックミュージックのスタイルである必然性はどんなところにあるのか。

「20代の頃、誰もが同じソフトを使い、同じように音楽を作れるDTMというものに違和感を持ったことがありました。技術的に説明可能な音楽を作ることができる世界。これはある意味で自明です。その先にある、説明できない感覚を探したくて、カセットMTRやアナログシンセ、テープエコーなんかを蒐集して使っていました。今を振り返ると、あれは幽微なものを探していたんだと思います。

重要なのは、今の私はアナログが幽微でデジタルが自明であるとは考えていないことです。PCの中にあるありきたりなソフトウェアからも幽微なものは作れるし、自明な技術のなかから聴いたことのない音楽を見つけることに本質を感じています。音楽史の外側にある個人史がそこにはあるし、そのためには、自明と幽微は対立するものではないんです」

約2000年の歴史を持つ場所に立つと、一人の音楽家の活動は圧倒的に小さなものに見える。その強度の差の比較にこだわりはじめると、オーセンティシティの競争になってしまう。しかし、冥丁が繰り返し語っているのは、巨大な歴史と個人、その両者の接点についてである。伝統の復興でもなければ、伝統と現代の融合でもない。少なくとも、そうした世界観に破綻がないことは、今回の赤城神社での演奏が驚くほど深く美しく、空間に響いたことが証明していたように思う。

「つまり、自明たる事柄と幽微たる事柄は互いに表裏一体であることを学びました。それは ”失われてもなお、残り続けている” というような言い回しにもあるように、片側だけでは成立しない肉体と魂のような一対の関係性とも言えるものだと考えています。

現代ではこの一対の関係性が形骸化してしまっていると私は思います。音楽を作曲する際に音楽のジャンルに囚われてしまうことは、自明たる事柄に偏っているから起こることではないでしょうか。

一方で、形式化することが難しい個人の思想や意識にばかり囚われてしまうことは、幽微たる事柄に囚われているから起こることではないでしょうか。現代は正に片面だけで成立できるような仕組みがさまざまに用意されていますが、常に個人の ”想い” から始まり、次に集団の ”想い” へと発展することこそが、美しい流れだと感じます」

公演を経て、冥丁は「拠り所」という言葉に立ち返る。

「今回赤城神社で演奏をしてみて感じたのは、そこへ至るまでの人の存在なんです。渡邉さんがいて、赤城神社の眞隅田宮司がいて、この場所を守ってきた人たちがいて、そして遠方まで足を運んでくださったお客さんたちがいる。そういう人たちの存在が繋がって、一つの場が生まれている。僕はその流れの中に自分も置いてもらったような感覚がありました。

演奏中は、日が沈むにしたがってお客さんに向かって演奏している意識が徐々に失われて、自分自身と向き合う時間に変化していく感覚を覚えました。強い孤独感を感じたけれど、それは嫌なものではないというか。拠り所を見つけられた感覚があったんです。

人間には何かしら拠り所が必要なんだと思います。昔だったらもっと明確だったのかもしれない。地域だったり、共同体だったり、信仰だったり、家族だったり。でも現代はそういうものがどんどん希薄になっている。だからこそ、音楽を通して何かに触れた時、 “ああ、自分はここにいていいんだ” と思える瞬間がある。その感覚を、今は拠り所と呼んでいるのかもしれません」

そういう考えのもとに生まれる冥丁の音楽とそのライブは、最大公約数の回答を瞬時に示してくれる生成AI全盛の今、より切実さを帯びて響く。「人生には言葉にならない瞬間がたくさんあるんです。冥丁さんの音楽は、そういうものを少しだけ輪郭のあるものにしてくれる気がするんです」とは、渡邉さんの言葉だ。

おいそれと参加できないロケーションばかりだった今回のツアーの後には、6月26日から28日まで高輪ゲートウェイシティで開催される『NU Festival 2026』にも出演することが決定している冥丁。都会を舞台にしたライブであっても、その時その場所にしか生まれない「幽微さ」を感じられるはずだ。

冥丁

日本文化から失われつつある感覚や記憶を「失日本」と名付け、現代的な感性で再構築する独自の音楽表現を追求。2020年から2023年にかけて発表された三部作『古風』は、The WireやPitchforkといった海外主要メディアからも高い評価を受け、国際的な注目を集めてきた。新作『瑪瑙』は、この『古風』三部作の楽曲構造を再編・追伸し、進化させた作品である。日本や欧州、アジアなど多様な空間での演奏を重ねる中で変化してきた音の堆積が、現在の冥丁の視座から再提示されている。

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Photos:Inoue Yoshikazu
Words & Edit:Kunihiro Miki

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